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#73

新元号「令和」発表前夜SP 元号に向き合った偉人たち

新たな元号「令和」の発表前夜、2019年3月31日のBS朝日『日曜スクープは、国のあり方、元号のあり方に向き合った、歴史上の偉人、岩倉具視や森鴎外を特集しました。「令和」の出典は「万葉集」、日本の古典からの引用は初めてです。番組では、聖徳太子の十七条憲法や嵯峨天皇の漢詩を取り上げ、元号の候補を考案するのはどういうことか、議論しました。

■総理大臣が「内奏」 発表の段取りを報告

山口

今日はスペシャルで元号発表について詳しくお伝えしていきます。早速ゲストの方々をご紹介いたします。元号研究の第一人者、京都産業大学の名誉教授・所功さんです。

どうぞ宜しくお願い致します。

山口

そして日本の中世政治史が専門の東京大学史料編纂所教授・本郷和人さんです。どうぞ宜しくお願い致します。

本郷

どうぞ宜しくお願い致します。

山口

そしてお隣です。昭和天皇の崩御、今上天皇の即位をNHKのニュースキャスターとして伝えた橋本大二郎さん、特別出演です。

橋本

どうぞ宜しくお願い致します。

山口

新元号発表までいよいよあと16時間に迫りました。28日なんですが新元号が発表される官邸の記者会見室で事務方のリハーサルが行われました。その模様をご覧ください。会見場にあるカメラの前をダンボールで目張りをしているんですね。情報はもちろんですが段取りさえも全く見せないようにする。ちょっと荒い感じもするんですけどね。所さんどうですか、やっぱり新元号発表に関しては非常にこの極秘情報管理が徹底しているということなんですね。

そうですね。前回もそうでしたが、今回も大変気を使っているようですね。

山口

いよいよ明日ですが、どのように新元号が発表されるのかスケジュールを見て行こうと思います。こちらですね。まず国文学、漢文学などの学者が考案した複数の候補から菅官房長官が数個まで絞り込んでいると見られています。午前9時半ですけれども
有識者懇談会が開かれて様々な意見を出してもらうということになるんですね。午前10時20分です。ここで衆参の正副議長に意見を聞くという場が設けられまして、その後閣議が開かれて元号が決定されます。そして午前11時30分注目ですね。菅官房長官が新元号を発表する、ここで明らかになるわけです。さらに正午ごろ、安倍総理大臣が談話を発表するという流れになっているわけですね。この談話につきまして、菅官房長官は総理自身が直接国民に趣旨を説明することが極めて大事なのではないか、としています。おととい安倍総理は天皇陛下に内奏を行ないまして、新元号発表の段取りなどを説明したと見られています。さらに午後には皇太子さまにも面会をしています。大二郎さんも大変お詳しいと思うんですが、平成の時に比べまして、今回の新元号発表に向けた動き、どうご覧になっているでしょうか。

橋本

「平成」の時は昭和天皇の病気がきっかけだったので、今回とは全く段取りも違うということだと思いますけれども、29日の会見の時ですね、菅さんが発表する前に天皇陛下にご報告をするかというような質問を受けて、それについてはコメントできないと言われておりますよね。天皇陛下はものすごく天皇の歴史に関しては詳しいですし日本書紀などに関しても非常に詳しい。また皇太子殿下は学習院の史学科で歴史を専門にして、吾妻鏡などを担当教官からしっかり教え込まれたという方なので、非常にやっぱりそういう意味での知識も豊富です。私も内奏した政治家に何人か話しを聞きましたけれども、昭和天皇の時も今上陛下の時も、いろんなご質問がくるということなので、どういう会話があったかなというのはすごく興味のあるところです。

山口

それから本郷さんにも是非伺いたいんですけども、これだけ注目される元号の発表というのは多分歴史上なかったんじゃないかと思うんですがいかがでしょうか?

本郷

なかったですね。

山口

やっぱりこれは天皇陛下が生前退位される、これが大きいと思うんですがいかがでしょうか?

本郷

橋本さんがおっしゃられたように、天皇の崩御という国民の本当に悲しい出来事と元号を決めるというのはセットになっていましたので、今までは。ところが、今回は天皇陛下はご健在でお健やかでいらっしゃる。だから言ってみれば、元号を定めるのをお祭り騒ぎにしても悪いことはないわけですよ。国をあげての喜びごと。だからそういう意味ではみんなで盛り上がっている、悪くないと思います。

山口

おっしゃる通りですね。平成の時を思い出すとあの時やっぱり鎮痛な思いでした。

橋本

自粛ムードでしたからね。

■有識者会議にはノーベル賞受賞者も

山口

新元号の決定方法、決め方です。政府は原案として5案以上から選出する予定だと、時事通信が伝えているんです。そして、選ばれる元号は「国民の理想としてふさわしい良い意味を持つ」ですとか「書きやすい」「読みやすい」それから「過去に使われていない」。こうしたところに留意して選ばれるということなんです。新元号がどのようなものになるのかにつきまして、安倍総理大臣こういうことを話しているんです。「新元号は広く国民に受け入れられ日本人の生活の中に深く根ざしていくものとなるよう慎重な検討が必要だ」。さらに菅官房長官は「元号は1400年の歴史を有しており単に年を表示する手段としてだけではなく、日本国民の心理的一体感の支えともなっている」と話しています。確かに、私たちの生活の中に根付いているなと思うんですよね。ちなみに、朝日新聞によりますと、民間の元号予想ランキングってあるんですね。ここで上位になっている「安久」などの案というのは、今話題になってしまっていますから避ける方針だと伝えられています。所さん、例えば、この「安久」に安倍総理の「安」が入っていると指摘する声もありまして、そういうところから避けなくては、とかそういうのもあるんですか。

そういう忖度はしない方がいいと思いますけど、要するに、年号にふさわしい文字がいっぱいあるわけです。条件にもありますけど、国民の理想としてふさわしい良い文字であることが大前提ですね。そういう中で俗用を避けるとなりますと、これは多分難しいと思いますね。

大木

実は、私自身も世間話で「安久」が来るんじゃないかと言って、すごく安直な予想していたんですけれども、川村さんどうですか。みんなの予想するものは避ける、この方針というのはどう感じになりますか。

川村

先ほどから出ているように、今回の場合には、今上天皇がきちんと確認できる新しい元号になるわけですね。そういう意味では明るさの中で元号が選ばれるという中で、新元号ビジネスというような商法になっている部分があって、良い面も悪いも面も含めて色んな所で予想が出ていて。当たった人には後で商品を与えますとかですね、宝くじに当たるような形にまでなってしまうことがこれまでとは全く違っているなと。

山口

いずれにしても、明るい気持ちでどんな元号になるんだろうと言えるのが素晴らしいことだと思うんですが。決定方法ですけれども、原案は国文学・漢文学・日本史学・東洋史学等の学者が考える訳です。そこから菅官房長官が数個を選定して有識者の意見を聞いていくことになるんですが、そのメンバーはこちら、分かっている方々がいるんですね。9人のメンバーですけど、例えば、iPS細胞でノーベル賞を受賞しました山中教授。直木賞作家の林真理子さん。それから前の経団連会長の榊原定征さんなどそうそうたるメンバーですけれども。

川村

今朝の菅官房長官のラジオを聴いていましたら菅官房長官自身が新しい時代にふさわしい元号を選んでいきたいと。そういう意味で今のこの有識者の方も新しい時代に向けての人材として選んでいるんじゃないかという感じもしましたからね。

大木

尊敬を集めるような方々ですが、ただ、山中伸弥教授は随分ご専門とは離れた方かなという感じもしました。

本郷

それでいいんですよ。本当に日本全体のことをお考えになれる方が選ばれているということで、歴史学者が誰もいないというのは、僕はおかしいとか一切、言うつもりはありません。

橋本

前回の1989年の1月7日の時の有識者の懇談会も、インド哲学の方とか東大の物理の先生も入っていますので、そういう違う分野の学者を入れる。

大事なことは二つありまして、一つは、選ぶというのは、原案考案者は一人で2から5出されると。一番多くて25くらい出てくるわけですね。それを3案くらいに絞る過程は、基本的に前回の例ですと、内閣官房の中で官房長官がなさると。これ第一段階ですよね。しかも、前回は、的場さんが部下と二人でやったといわれる。その絞り込んだ案を一つにするために有識者懇談会と正副議長に諮られると。最終的なところは、これでよろしいでしょうかね?ということで国民の良識を代表する各界の人々が合意形成されるということだろうと思います。

■岩倉具視が主導した“一世一元”

山口

国立国会図書館 所蔵

その合意形成が大事だということですよね。元号の決定方法ですが、実は100年以上前から誰もが知っている歴史上の偉人たちが改革を重ねてきたということなんですね。ここから歴史を遡って行こうと思います。ずっと遡っていきまして、時は「明治」です。「明治」の元号決定に大きな影響を与えた人物がいるんです。幕末の公卿でもあります岩倉具視さんですね。この岩倉具視は歴史の教科書にも出ておりますが、大久保利通などと王政復古を主導したり、ちょっと懐かしいですね、500円札の肖像画にもなったりした方でした。岩倉具視が行った改革があるんです。その中身を見ていきましょう。この文章なんですが、これは明治元年1868年の8月に岩倉具視が作成した文書なんですね。ここ“一代一号“と読めますよね。一代一号と書かれています。幕末の慶応から明治への改元の中で天皇一代に元号一つ。つまり一世一元の決定がなされた、まさにその文書はこれだということで、今では当たり前になっている一世一元は岩倉具視が決めたということなんです。実は岩倉具視は明治以前の元号の決め方、江戸時代のあり方に不満があったということなんです。それまでの元号ですが、例えば災害などがある度に改元を繰り返すという歴史もありました。例えばですね、江戸時代最後の天皇の孝明天皇は21年間で元号を6回も変えていた訳ですね。所さんどうですか、江戸時代まではどんどんこの改元をしていた。さすがに多すぎるのではないかということでしょうかね?

国立国会図書館 所蔵

それは一つの大きな要因だとだと思います。背景には、実は元号のお手本の中国が明の時代から清の時代にかけて、ずっと一世一元をやっておりましたから。前近代の日本では中国が最高のお手本でしたから、中国でやっているんだから日本も一世一元でいいんじゃないかということもあったと思います。と同時には、やはり日本においてこれだけ頻繁に改元することで予算もありますけど、煩わしさもあるということでこれを改革しようとしたんだと思います。

山口

当時は、「明治」のようにするのにあたって天皇中心の国にするんだという中で、一世一元という風にしようとしたという動きも考えられますか?

結局、元号とは何かに関わるんですが、政治というのは空間的な秩序を立てるものですが、大事なのは時間の秩序を立てる上で元号も大事なものなんだと。それをやはり幕府の関与でやってきた江戸時代のあり方を変えて、天皇ご自身がお決めになって一つにまとまっていくと。時間的な秩序を天皇のもとに立てていくということがあったと思います。

山口

本郷さん、例えば改元が何度もされると、庶民レベルでも影響が大きかったのかなとか想像するんですがどうですかね?

本郷

当時の庶民は元号というものが生活に浸透していなかったかもしれない。彼らは何を使ったかって言うと干支です。それで時間を考えていた。そうなりますと、やっぱりこの天皇陛下にはこの元号だっていうことではっきり示した方がみんなに分かり易いじゃないですか。みんなに浸透するわけです、それがやっぱり大事。それから、所先生が言われたみたいに、当時は幕府の関与というのがものすごかった。ところが、やっぱり幕府を廃して天皇の下での親政ということをやりたいっていうことになると、天皇は江戸時代に幕府と関係なく専権事項として持っていたのは、所先生から言われたその時間を司る。元号と天皇と非常に密接な結びつきだったんですね。

橋本

例えば孝明天皇の6回の改元の時に、「安政」というのは私たちだと安政の大獄だとかいうのを思い出しますよね。当時の町民というか国民の皆さんは、あの事件は安政の大獄と呼ぶんだというようなことあったんですか?

本郷

当時はないかもしれないですね。後で歴史の研究をする中で安政の大獄という名前が作られたんですね。

ただその点は色々ありまして、最近やっぱり色んな研究が出ますと、もうちょっと元号をみんなが知りすぎているから茶化して、そして、こんなの嫌だとか庶民が言ったのでそれで変えたと。それは江戸の中頃からありますから。

本郷

いわゆる京都の町人とかというと、かなりリテラシーが高いじゃないですか。農村部へ行くとそれほどではないですよね。

いやいや、私は日本のレベルは高かったと思います。

■「明治」岩倉具視が進めた“改革”

山口

国立国会図書館 所蔵

岩倉具視の不満のポイント、二つ目は改元までの手続きが非常に煩雑だったんじゃないかということなんですね。そもそも元号はどうやって決めていたのか。その内容を見て行こうと思うんです。江戸時代の改元定めという文書ですが、小さいので実際に大きいものを用意しました。これが拡大したものになります。江戸時代の改元定めです。着座の図とあります。これはぜひ本郷さんに解説して頂きたいのでお願いします。

本郷

これは大変すばらしい図ですけども、こういうところで改元定めという会議が開かれます。そこに出席するのは大納言とか中納言とか、これは詮議。こうした公卿であいつはものを知っているぞという人が大体10人ぐらい集まる。ここにいるのが上の公卿の卿と書いて上卿(ショウケイ)と呼びます。この人が取りまとめ役です。この人が一番偉い。そうやって座って改元定めをする。彼らの手元に何があるかというと、彼らよりちょっと身分が低いと言われる学者の貴族。学者の貴族が一人三つぐらいずつ案を出すんです。そうすると5人ぐらいに聞きますので15個ぐらいのプランが出ているわけです。例えばこれ見てください、「文化」という案についてなんだけれども、と言って、一つずつやっていくんですよ。そうすると”難”って書いてありますね。この難って書いてある経逸卿(つねはやきょう)というのは、勧修寺経逸という貴族ですが、この人はだめだと言っているわけです。なんで「文化」はだめかというと、永正以来6回か7回落選していると。もう一つ「文化」の「化」という字は「大化」という年号以来使われてない、だからこの字はほとんど死んでいると。だからこういうのはいかがなものか、それで他を考えましょうよと言っているわけです。これに対してこの花山院愛徳(かざんいんよしのり)という人ですけど、愛徳卿はそんなこと言ってケチつけるけどそうでもないよと。落選は別にいいじゃないかと。それに対する反対意見です。落選は別にかまわないじゃないか。

「化」はなんで使われなかったのか理由は分からない。悪い意味があって使われなかったんだったらしょうがないけど別に意味がないんだから(使っても)いいんじゃないかということですね。大体、「大化」っていうのは我が国の元号の始まりだからこれはとってもいいものだ。だから「化」を使おうよと。それからもう一人。この“難”に対する反対意見として資矩(すけのり)さん二人目。資矩卿が言ってきたのは、愛徳卿の言うことはもっともだ。それから音がとても優美だ。「文化」という音がとても優美だ。今まで使われてないと言うんだったら、今回使えばいいだけのことじゃないか。そういう議論を踏まえた上で、さっき言った上卿これを賛成しているのが二人いると。この二人は同じようなこと言っていると。「文化」というのは、美しい元号だとだと私は思う。一応これは排除しないで候補として取っておいて、他の元号についても話し合っていきましょうと言って議事を進める。

山口

議事録が残っていたんですね。

本郷

たまたまですよ。これ見たらわかると思うんですけど、結局どうやって決めるかというと、ポイントは重箱の隅のつつき合いなんです。悪口の言い合いです。どんどん黙るやつを落としていくんです。だめなやつを落としていって生き残ったやつでどうですかと。ここに天皇陛下はいらっしゃらない。それで大体みんなの話がまとまると、上卿が天皇陛下のところに一つ二つぐらい持って行って、こんな感じなんですが、いかがしょうかと言って天皇が「じゃあこれにしよう」というと天皇の勅諚が出る。そうすると文章として詔がそこで作られ、その日のうちに改元が決まると。

山口

そこに行くまでには、ああでもない、こうでもないっていろんな意見が出て、お互いに落とそうとするわけですから中々決まらないってこともあったんですかね。

本郷

紛糾することはあったと思います。この人たちみんなフラットな関係じゃないわけですよ。派閥とかあるわけですから。

山口

所さんは、いかがですか?

2つありましてね、やり方が詳細に記録は残っておりまして。まずこれ公卿の会議と言いますが、今の閣議みたいなものですけど、それは基本的に京都御所の紫宸殿のすぐ脇でまず一番末席の人から発言をする。みんなの意見を聞くんですよ。皆さん発言しやすかった。やっぱりあれがよくない、これがよくないって言うのと同時に、今度あれがよい、これがよいという、かなり開かれた会議をしている。そして多数の中から3つくらいに絞って一旦、天皇に奏上しますと。天皇は自分でお決めになるんじゃなくて、もう一回別の案を選択させる、差し戻されるわけです。それを受けて今度は別のものを決めて持っていくと、じゃあそれでよろしいということが勅諚ということになったんですね。そういう点では非常にシステムとしてはうまくできていたと思います。

山口

ここで岩倉具視のところに戻って行きたいんですけれども、岩倉具視がこうした貴族のやり取りをやめさせます。事前に所さんから伺ったんですが、こうしたやり取りは一種の文字遊びになっている、こうしたことを止めることは合理主義者、岩倉具視流の働き方改革だと。公家任せではなく天皇陛下に決めてもらったという形を作りたかったのではないか、という風に解説をしていただきました。では実際に天皇陛下が決めるやり方はどういうものだったのか。驚きました、当時15歳の明治天皇がくじ引きで明治を引いて決まったということで、所さんこれなぜくじ引きだったんですか?

これは本当に例がない大変ユニークなやり方だったんですが、昔から日本ではくじを引くってありまして。人事を尽くして天命を待つという言い方もありますけど、みんなで考えても最後は神様にお計らいをいただくという意味でくじを引いたりすることはよくありますよね。そういう意味でこの方法は突拍子もないこともないんですが、問題はこれをこの時点で元号を決めるという事に適用すると。これはやはり岩倉という人が非常に学問のある人で、そういうことが決して不自然ではないどころか、天皇の中心の決め方をする上ではこれが良いということを早くから考えておられたようで。しかも、これ独断しないで提案して、賛成を得た上でやっているんですね。

山口

やっぱり、そこには岩倉具視の合理主義的な判断があったということでしょうか?

要するに、どうしたら本当に近代国家が作れるかという大構想がある中の一つなんですね。そういう意味では、私は、岩倉さんは本当に先の見えた人だと思います。

山口

大二郎さんはこの岩倉具視の改革ですね、どんな風にご覧なりますか?

橋本

時代を考えると黒船が来て、このまま黙っていたら、外国の植民地にされるかもしれない、国がまとまらないといけないという時代ですよね。そういう中では、公武合体から倒幕へという流れになっていったわけですけれども。今の国民統合の象徴である天皇ということから考えれば、その当時は統合の象徴として、その上に立つ天皇というものを作っていく。そのためには天皇が決めたというような、天皇に、力とか威厳、カリスマ性を持たせる仕掛けが必要だという風に考えたのではないかなと。

■「大正」数日前の“元号案”依頼で

山口

国立国会図書館 所蔵

岩倉具視の改革によりまして一世一元。それから天皇が決めるという形が導入されていった改元ですけれども、その後また改革が行われたんです。それが「大正」の時ですね。どんな改革だったのか見ておきましょう。枢密院、当時の天皇陛下の最高諮問機関です。枢密院が元号を決めるということが法制化されたということになる訳です。この改革を主導した方というのはこちら西園寺公望総理大臣です。第12代、第14代の内閣総理大臣で鉄道の国有化それから日露協商などを締結したことでも知られています。しかし、一世一元を決めたことで、新元号を考えるタイミングが難しいという問題が出てきたんですね。つまり天皇が崩御してから次の元号になるので、あまり早くは準備できません。明治天皇が崩御した数日前なんですが、この時に、この西園寺さんは漢学者ら5人に案の作成を依頼したんですね。ところが、やはりこの西園寺さんが主導した改元というのはかなりドタバタになってしまったんです。

大事なことは、明治22年(1889年)に皇室典範が出来まして、元号というものを皇室典範の中できちんと決めることを定めておいて、さらに20年後の明治42年(1909年)に登極令という皇室の法律みたいなものができまして、そこに、元号は天皇が亡くなったら直ちに改めると明記したんですね。直ちにというのがいつを言うのか解釈がまだ十分なされないままにその3年後に崩御されましたから。7月30日の真夜中に亡くなった。その日のうちにやればいいだろうと。その日のうちでも大変だからというので、結果的に数日前から天皇がご病気になられて重くなられたら準備をするということは秘密に行われたということでありますから。ドタバタといえばそうなんですが、当事者とすれば慎重に状況を見極めて、総理大臣と宮内庁の長官の下で準備が進められたということです。

橋本

歴史的な出来事は前例になっていくと同時に反省材料にもなっていくので、「昭和」から「平成」のとき、色々、過去の反省材料もあって、昭和天皇が江戸時代の後水尾天皇の年齢を超えて最長寿の天皇になった時から、かなりそういう準備は多分していただろうということを思いますので、こういうことが積み重なって現在の改元に繋がってきているんだろうと思います。

山口

提供:文京区森鴎外記念館

西園寺総理は数日前に5人に案の作成を依頼しましたが、ご自身が漢学の素養を持っていらっしゃった。総理自らが来た案に対してダメ出しをすることもあったということですね。こうした中で、この3度目の審査で決まった元号というのが「大正」だったということなんですけれども、この「大正」に対して不満を持ったやはり歴史上の偉人がいるんです。それが森鴎外さんですね。もちろん皆さんご存知だと思います。『舞姫』などの作家として文豪で知られていらっしゃいます。それから東大の医学部を卒業した後、軍医総監にもなっているという人物で、「大正」の改元に対する不満を森鴎外は手紙にしたためていたんですね。

東京文京区にある森鴎外記念館を訪ねました。森鴎外記念会の顧問を務める山崎一穎(やまざきかずひで)さんの案内で記念館の中を進むとそこには・・・

森鴎外記念会顧問 山崎一穎さん(跡見学園理事長)

これが森鴎外の手紙です。

普段は公開していない森鴎外が親友にあてた手紙を特別に見せていただきました。そこには大正への改元に対する強い不満がつづられていました。

森鴎外記念会顧問 山崎一穎さん(跡見学園理事長)

「大正は安南人の立てた越といふ国の年号にあり、また何も御幣をかつぐには及ばねど、支那にては、大いに「正」の字の年号を嫌い候。「一」にして「止まる」と申し候。不調べの至りと存じ候」

手紙の中で鴎外は、「大正」の年号は今のベトナムですでに使われていた年号であることを指摘、さらに。

森鴎外記念会顧問 山崎一穎さん(跡見学園理事長)

中国では「正」の字を元号に使うことを、嫌っていると述べています。その理由は、「正」の字は「一」と書いて「止まる」と書きますから、一にして止まるんですね。ですから王朝が一代で終わってしまうと、験を担ぐわけじゃないけど、その字をつけて滅びた例をたくさん挙げていると言っています。

手紙の最後の「不調べの至り」とはつまり、これまでは改元の時に調査・審議が不十分であるという、鴎外の不満が記されています。森鴎外直筆のこの手紙は、4月6日から6月30日まで文京区立森鴎外記念館で特別展示、直接見ることが出来ます。

山口

森鴎外の直筆の手紙があったということで、非常に興味深いんですけれども、この中で「大正」は既にベトナムで使われていたんだと指摘をしています。さらに「大正」の「正」という字は、これ上と下を分離しますと「一」にして「止む」という風に書くので、縁起が悪いともこの中で書かれていたそうです。所さん、いかがでしょうか。

結果的には、森鴎外にしてみれば、西園寺さんもうちょっと調べてくれればよかったなという思いで。ただ、鴎外が偉いのは気がついてもすぐ言わないんですね。確か、大正9年くらいになって言っているでしょう。しかも、友達に言っただけで、別におおっぴらにしているわけじゃないんですよ。将来こんなことが起きるといけないから自分がやっぱり元号の研究をしようと。しかも、たまたま当時の宮内省の図書寮っていいますけど図書館の研究所の長官になって。その時に自分の仕事として元号の歴史を調べるんですね。それは非常に偉いと思います。

■森鴎外が命をかけた『元号考』

山口

提供:文京区森鴎外記念館

所さんがおっしゃったところが森鴎外が命をかけた作品ということになるわけで、こちらです。森鴎外はこの『元号考』という本の執筆に取り掛かるわけですね。まさに晩年の作品となるわけです。その内容というのは、大化から明治に至るまでの240余りの元号の出典はどこにあるのか、ひとつひとつ中国の古典を調べていったのです。

森鴎外は亡くなる直前まで心血を注いで取り組んでいたことがありました。それが、この『元号考』です。

森鴎外記念会顧問 山崎一穎さん(跡見学園理事長)

『元号考』は日本の元号の出典考証です。明治という年号が中国の古典の何に載っていて、どのような根拠で決定され、どういう意味合いを持つかということをずっと調べたということですね。

およそ1400年の歴史を持つ日本の歴代の元号すべてについて中国の古典から確認するという壮大な試み。しかし、その志半ばで鴎外は亡くなります。

森鴎外記念会顧問 山崎一穎さん(跡見学園理事長)

元号とは時(時代)に名を付けることです。国家の別名と言ってもいいでしょう。日本国家の形に付ける名前は、きちんととした正当性を持たなければならない。そういう思いが、この歴史の中で今まで必ずしも、正確に選ばれてきていないことに対する鴎外の強い思いが『元号考』になり、鴎外は、元号で言えばやっぱり国民的なというより、国家として「名は体を表す」と、名と体の問題なんですよ。それで名と体は由緒正しきものでなければいけないというのが鴎外の主張ですから、それが、その時代を生きる国民のおそらくバックボーンになって行くだろうという風に考えている。

山口

森鴎外研究の第一人者で跡見学園理事長の山崎一穎(かずひで)氏は、森鴎外の元号への想いを「日本国家の別称ともいうべき名前についてはきちんとした正当性を持たせなければならない」と指摘しています。森鴎外は、こういう思いを持って何とか『元号考』を作り上げようとしていた、その最中だったんですが、執筆中に亡くなってしまった。本郷さん、森鴎外の思い、いかが思われますか。

本郷

同じ時期に、僕、そういえば思い出したんですけど、皇統譜。いわゆる天皇陛下の歴代それも定められているんですよ。天皇と元号をセットにして日本の国の形っていうのをきちんとしようという思いがあったのかもしれませんね。

鴎外はもう一つ『帝謚考』といいまして天皇のおくり名の研究も同時にして、その両方とも資料考証して残してくれたわけです。

山口

大二郎さんいかがですか、このあたりの森鴎外の思いなんですが。

橋本

謚号を考えるという『帝謚考』というおくり名、これは完成したんですね。次に元号に取り掛かったというのは、日本という国の元が何だったかという考え方に賛成反対あるでしょうけれども、資料としてきちんとしておこうと思っているところがすごいのと、所先生が言ったように、そういう「大正」について、もし難点を見つけたのであれば今の時代だったらすぐTwitterでつぶやいたりね、ブログに書いたりして俺は見つけたんだって言うでしょうけど、そんなこと言わずに友達にのみ書き送って、後は自分でやっていくところがすごいですよね。

もう一つ、鴎外は学力がある人だと思いますけども、本当の学者をスカウトするんですね。当時の奈良女子師範。現在の奈良女子大学の吉田増蔵という先生を宮内省に呼んで考証官にするわけですね。そして、その方が鴎外が亡くなった後、『元号考』を完成するわけです。私は英知を結集してこの事をした鴎外という人は本当にすごいと思います。

山口

川村さんここまでの流れを聞いていてどうでしょうか。

川村

鴎外はドイツにも行って海外も見ているし、その国の形ということに関して言えば、医師でもあり小説家でもあった。最後の自分のライフワークとしてこれをやらなければいけないんだと、そういう深い思いがあったのではないのかなと思うんですね。話がそれますけど、「大正」という元号をスクープしたのは当時の朝日新聞なんですね。朝日新聞の緒方竹虎記者は、朝日の屋台骨になって総理大臣間近まで行った人ですけれども。彼がある政治家からスクープして「大正」をとくダネで書いたと会社の歴史にも書かれているぐらいなんですけど。そういうものが何故そうなったのかっていう考証はあまりメディアはしていないんですよね。その後、「大正」から「昭和」になる時も、皆さんご存知のように毎日新聞の「光文」事件がありますし、「平成」の時は、唯一毎日新聞だけがある意味ではリベンジという形で、夕刊に、新元号は「平成」で時間的にはもう入らない所にギリギリの段階でスクープをした記者がいるんですけど、今回はそういうことはないんですね。スクープはできないような形で11時半夕刊に全部入るというような流れになったのも、元号とメディアのある意味の戦いもこういう所から始まっているのかなという感じがしましたね。

山口

森鴎外の後継者、吉田増蔵さんですね、この人は福岡県出身の漢学者です。宮内省と図書寮の編集官で元号考を完成させた方です。森鴎外が吉田増蔵さんへの信頼を非常に置いていたとみられる言葉が残されているんです。 鴎外は遺言に、愛読書の漢籍数千巻について、「余が死したならば、之を吉田増蔵君に送るべし。吉田君の外善く之を用いるものなし」つまり吉田さん以外にはこれをできる人はいないんだということでこの意思を託したわけですね。吉田増蔵さんがその後、「昭和」を進言するという流れになっていったわけです。所さん「昭和」には森鴎外、そして吉田増蔵の思いが結実したと言えると思うんですよね。

吉田増蔵という人は大変な学者でして、元号の考案に約60ぐらい作ったと知られておりまして。猪瀬直樹さんがはっきり書かれましたけども、その資料が残っております。最終的に残ったのは「昭和」ですけれども、本当にそういう相当な考証と準備をした上で「昭和」を迎えられたという事ですね。

■「昭和」「平成」受け継がれた思い

山口

「昭和」の時代ですが、第二次大戦がありました、日本は敗れました。そして皇室典範は廃止となって元号は法的な根拠を一旦失ったんですね。その後1979年、元号法が制定されました。元号を選ぶ6条件も定められました。国民の理想としてふさわしい意味を持つ、俗用されていない、こういう内容も入っているわけです。1989年に昭和天皇が崩御されました。午前6時33分ですね。昭和天皇が崩御された8時間後ですよね、14時36分新元号の「平成」が発表された。

この番組に以前、出演いただきました、的場順三さんはこういうことをおっしゃっていました。「何か万が一のことが起こった時に元号の候補が何もありませんというわけにはいきませんから、表には出さないで、きちんと準備をしておくんです」と話されまして、「大正」の時の反省を生かして非常に念入りに決めていたということになると思います。大二郎さんに伺いたいんですけども、この「平成」の決定のプロセスですよね。歴史的な背景があったわけですけれども当時伝えていたのは大二郎さんでした。このプロセス、今どんな風にお感じになっていますか?

橋本

振り返ると国の位置づけと言うか、「明治」の時は富国強兵が四文字熟語でありましたけれども。海外からの開国を求められて一世一元ができたというところから始まって一世一元があるがための「大正」という元号を選ぶときのゴタゴタかバタバタか分かりませんけど。そういうものを踏まえて「昭和」があり「平成」があるんだなと改めて感じますね。

山口

本郷さんいかがでしょうか。この流れをずっと引き継いできた中での「平成」の発表だったわけですね。

本郷

正直「平成」と聞いた時にピンとこなかったのですが、使っているうちに、さすがに慣れなれますよね。今度の元号もすごいやつじゃなければ、そのうちにしっくりくると来ると思いますよ。

山口

30年も一緒に付き合っていると愛着が湧いて来ますよ。

本郷

うちの奥さんと一緒ですよ。

大事な事は、そういうことを考える上でも昭和54年(1979年)の元号法ができたことが大きいんですね。それがなければ10年後に「平成」の改元はうまくいかなかったはずですよ。それを見越して元号法制化という流れが昭和40年代から盛り上がって、当時は大反対の政党があり論壇があった中で、結果、成立させた。これがあった事は非常に大きい。従来、天皇がお決めになっていた事をいまの憲法でできないから元号は政府が政令で定めるとした上で、一世一元でないといけないという事で皇位の継承があった時に限り元号を改めるとした。当時としてはよく出来た法律だと思うんです。出来た途端に昭和54年当時の三原総務長官が言っておられたのは、元号は政府の責任で決めるようになった以上、万一、明日何が起きてもすぐそれが準備でき発表できるようにする責を負うと。その時から元号考案者の委嘱が始まっていたという事です。

川村

当時、太平総理だったんですよね。大平総理はご存知のように純粋なキリスト教徒ですから。ある意味ではそういう国の形というものに関しても万遍なく意見を聞くそういうタイプの人でしたから。いろんな意見を聞いて元号法制定しなければならないと思い至ったという方もいらっしゃいますので、ある意味では良いタイミングだったんじゃないかと思いますね。

橋本

当時の石原官房副長官も元号法があったから段取りよく進められる事が出来たと。この法律がなければ、準備はできなかっただろうって言われている。

本郷

良い事か悪い事か別として、元号法が制定されたときは大学の1年生だったんですね。知識人たるもの真ん中からやや左にあるべきだっていうのが当時としてはあった。当然の事ながら元号法、それから日の丸君が代。反対するのがやるべき事だって話だった。それがやっぱり隔世の感がありますね。皆が元号に親しみを持っていて、今さすがに元号なんかいらないなと言う議論を立てる方があまり目立たないですね。そこら辺が世の中変わったと思います。

■「日本の古典から選ばれるとしたら・・・」

山口

新元号ですけれども、今回は歴史上初めて日本の古典から選ばれる可能性というのが指摘されているんです。これまでの247の元号は全て中国の古典が由来だったんですね。大木さんお願いします。

大木

今日スタジオに来てくださった所さんが聞いたお話というのをこちらまとめさせていただきました。日本の古典の大家からこのようなお話を聞いたということなんです。昭和36年(1961年)頃です。日本書紀研究会で東大の坂本太郎教授が元号は日本のものでもいいのではないか、と発言されたということなんです。すると漢詩文研究家の小島憲之先生が「自分ならまず聖徳太子の17条の憲法から選び、次に嵯峨天皇から選ぶでしょう」と答えたということなんですね。考古学者の斎藤忠博氏も「長い歴史のある日本だけに万葉集や古事記から選んでもいいのではないか」と話されたということなんです。このあたりを考えますと、所さん、やっぱり日本古来の古典からという思いはやはり学者の皆さんの中にはあったという事ですか?

これの裏付けを取るのは難しいんですが、「平成」が決まった時の元号考案者が4名ほどはっきりしていまして、その一人が国立国文学研究所の初代館長の市古貞次先生ですから。どうもあの頃から日本の古典から取ってもいいじゃないかという風な案があっただろうと言われる。まして元号について元号法が出来る時も話があった。坂本先生のことを小島憲之先生がおっしゃったということが平成元年に読売新聞が出した記録の中に出ておりまして、そういう意味では明らかに「昭和」の後半から特に「平成」改元の時に日本の古典を用いることも考慮されていたのだろうと思います。

山口

日本の古典から、新しい元号が選ばれるのではないか、ということですが、日本古典の大家たちが例に挙げた日本書紀の17条の憲法と、嵯峨天皇の漢詩を見ていきます。まず聖徳太子の十七条憲法です。この十七条憲法は教科書にも出ていますけども、その第1条ですね。「一に曰く、和を以って貴しとなし、忤うこと無きを宗とせよ」平和は和が大事だから。諍いを起こさないようにしてくださいということをおっしゃっている、そういう内容なんですよね。その下が漢文で書かれたものになる訳です。十七条憲法のこの中から仮に元号が考えられるとすれば、所さんいかがでしょうか?

私は可能性が高いと思うと同時になかなか採用されない可能性も高いと思いますのは、誰でも考えられるのが漢文で書けば「和」「貴」は年号としていいなと思うんですが、ちょっと調べると会社がありますし、学校もありますから俗用という事になりはしないか。もう一つ、ちょっと言わない方がいいんですけども、敢えて申しますと、下から2行目「和」「成」この2つがいいのではないかと思ったんですよ。「昭和」の「和」と「平成」の「成」を受けついで良いと思ったんですよ。調べたら「和成」という会社もあるし学校もあるんです。問題は6条件の俗用されてないということをどこまで考えるか。大会社とヒット商品は無理だとしても、普通のそういう良いなという文字、組み合わせであればそれは許容の範囲だとすれば、ここで言ってしまいましたからその可能性はないと思いますが…。

山口

先ほどの日本古典の大家たちが日本の古典から元号が決まるとしたら、と注目したものに嵯峨天皇の漢詩も挙げられています。嵯峨天皇は平安初期の天皇でいらっしゃって、政治力があるだけではなくて詩文に優れていらっしゃった。三筆のお一人とされています。嵯峨天皇を語る上で重要なエピソードがあるんです。嵯峨天皇が書写をしました、般若心経なんですね。大木さんお願いします。

大木

昨年、大覚寺で初めて一般公開され話題を呼びました。大覚寺のホームページにはこう書かれています。「弘仁9年(818年)の春 大かんばつから、全国に疫病が蔓延、嵯峨天皇は「朕の不徳にして多衆に何の罪かあらん」と正殿(御所)を避けて離宮嵯峨院で質素倹約に努める。弘法大師(空海)の勧めで般若心経を書写。疫病はたちまちに治まった」

山口

本郷さん、嵯峨天皇という方どんな方ですか?

本郷

文治に優れていて政治に優れている、これは言うまでもない事ですが、ビックリするのがこの天皇は鷹狩を好まれた。つまり天皇陛下というと、どちらかと言えばインドアな感じですよね。ところがアウトドアもされた。神聖ローマ帝国のフリードリヒ2世、源頼朝の時代よりちょっと後ぐらいかな、それぐらいの人なんですけど、鷹が大好きで、鷹についての研究を生物学的な研究をされていたんですが、嵯峨天皇はそれよりもだいぶ前に800年代ぐらいに鷹狩りについての論文を書かせていた。そういう感じの方です。アクティブでもあった。勿論、文章にも優れていた。

橋本

中国が割と好きな方ですね。

本郷

当時のスーパーエリートは漢文で考えますから。

橋本

何も西洋かぶれ的な意味で中国かぶれではなくて教養として。

山口

当時は漢文だったんですね。

大事な事は、元号もそうですが、中国日本は漢字文化圏の中の共通の間の素材ですから。漢文が書ける、漢詩が詠めるというのは最高の教養なんですね。それが空海、嵯峨天皇は抜群であった。

■嵯峨天皇の勅命で編纂した漢詩集

山口

嵯峨天皇が書かれた漢詩があるわけですけれども注目されるのがこちら。『文化秀麗集』というものとこちら『経国集』ですね。漢詩集です。中でも『文華秀麗集』は嵯峨天皇ご自身の勅命で編纂されたものなんです。所さん、嵯峨天皇の漢詩はどういうところが素晴らしいのか教えていただけますか。

当時、最高の漢詩・詩文者は空海だったと思いますが、空海と非常に親しくて、空海に弟子入りするくらいの気持ちで学ばれたのが嵯峨天皇でして。嵯峨天皇の漢詩文が本当に優れていると研究されたのは小島憲之先生なんですね。そういう意味で、私は詳しくありませんけれども、漢詩文の研究者が見ても、当時抜群のお方であったことがわかりますし、当時の時代をつくる上でも大きな意味があったと思います。

山口

嵯峨天皇の書かれた漢詩、一体どういうものだったのか大木さんお願いします。

大木

『文化秀麗集』の冒頭には嵯峨天皇の漢詩が収められています。こちらの漢詩なんです。
「江頭(こうとう)の亭子(ていし)人事(じんじ)にそむき、枕をそばたてて ただ聞くは古戌(こじゅ)の(かけ)のみ」
河のほとりの宿は俗世間との交渉も無く、枕をそばたててただ聞き入るのは砦(とりで)の鶏(とり)の声ばかり。雲気(うんき)が衣(ころも)を湿らせるので山の峰に近いことを知る。古びた流れる泉の音が眠りを覚まさせるので渓谷に近いことを悟る。

こういった意味の文章だという事です、非常に情景が浮かびますね。本郷先生、どう解釈したらいいですか?

本郷

写実性に優れているということですね。嵯峨天皇は外に行かれて自分の目で見た、外の風景を見事に文章になさった。僕はもし仮に、これを読んでみんなで元号を作ろうということになったら、最後のところの「陽和」を選んだ、どうでしょう。これも「昭和」の「和」を使っているので採用はされないでしょうけど、「物候言陽和未。汀洲春草欲萎萋。」という文章あるんですね。その草が生えようとしているという事で、気候はまだのどかではないけれども、草の生命力が生えようとしているから、日本はこれからどんどん成長していくんだ、という願いを込めて「陽和」はありかなと。それから例えばその隣、読んでいただけますか

大木

受命漢祖(じゅめいかんそ)に師となり、
英風萬古(えいふうばんこ)に傅ふ(つたう)
沙中(さちゅう)の儀 初めて發り(おこり)
山中の感(さんちゅうのかん)彌(いよいよ)玄し(おくふかし)

本郷

これは嵯峨天皇が、大変有名な漢の高祖を盛り立てて漢帝国を築いた大軍師である張良という人の事績を記した。先ほどのものと少し違うんです。その中で最初に書いてある「英」「萬」。張良の素晴らしい姿は後々まで永遠に伝わって行くということですが、ここから、日本の優れた姿は後々まで伝わって行くだろうという事で「英萬」というのはいかがでしょうか。そういう案もこの番組用に出してみました。ただ、これが問題なのは、漢字なんです。漢字を今度は旧字体というのがあったり、「正字」という言い方もあるんですけど、どれが正しい漢字なのかというのは「萬」というのは壱萬弐萬の「萬」なんですよ。どちらで使うのがいいのか問題があるので使われません。そういう風にケチがつくんですよ。所要時間1時間か2時間で選びましたけど、ゆっくり選んでいくとケチのつかないのができますよ。『文化秀麗集』でも十分できます。

山口

大二郎さん、ここまでいかがでしょう

橋本

『文化秀麗集』の自然主義的なものを見ていると、どう元号に使えるかなと思いましたけど、先生が言いましたように、草が元気に育っていくというような読み方をしていけば、そういうのも、教訓的なものよりは自然の中に見た生命力の強さとか青々さとか、そういうものを強調しても面白いかもしれません。

大木

日本人の嵯峨天皇が詠まれたのであれば、漢詩であっても、日本の古典からという考えですか。

漢詩と言うのは文化圏の中では最高の表現形式ですから。日本人が作った漢詩が中国人を驚かすようなものがあるので、そういうものとして考えれば当然いいわけですよ。

橋本

西郷隆盛も漢詩を作っていますもんね。

日本人が作る漢詩が、ましてや漢文は元々中国の古典に基づいている表現が多いですが、中国の英知を日本で十分に活用していると考えれば、それでいいだろうと思います。

山口

元々の文化は中国から来ているわけですから、それを日本流に使っていると。

本郷

日本人が昔からそれがうまかったんですよ。色んなものを受け入れてそれを日本風に改良して世界に持っていくわけですからね。漢詩というものを嫌う必要はない。

山口

川村さんいかがですか?

川村

まさにそうだと思いますね。和魂洋才という言葉があるぐらいですから。うまく海外のものを日本が取り入れてきたか。そして、それが独自の日本化になってきているという事ですから。今回はこうやって公に中国の古典漢詩だけから選ぶわけではないということを、日本の古典からもと言っていますから、可能性としては非常に大きいんじゃないでしょうか。和歌集とかもありますし。

■注目が集まる“未使用元号”の漢字

山口

新元号を紐解く鍵としてもう一つ注目すべきポイントが未使用の元号です。大木さんお願いします。

大木

江戸時代の末期です。元号が「慶応」に決まる時の書類が残っているんですが、その候補によく見てください。「平成」というものも候補に挙がっているんです。ルビもヘイセイと書かれているんですよ。

山口

所さんが「平成」が決まった時に、あれどこかで見たことがあるなって思われて、その記憶が合っていたっていうことなんです。

「平成」が決まった時に、たまたま私はNHKの解説を担当していたんですが、その時は分からなくて、部屋に戻ってどこかで見たなと思ったのは、元号の研究をなさった戦前の第一人者が森本角蔵先生で、日本年号大観という大書を出している中に、これが上がっておりまして。1865年、「慶応」の改元の時に「平成」が出ていたと。国立公文書館で公開された資料ですが、振り仮名まであるという事が大事でして。日本の年号は古くは読み方わからないんですね。この頃になると振り仮名までつけて案が出されてあったと。そういう意味で貴重な資料だと思います。

山口

所さん、1回は使われなかったとしても、それが復活して使用される事はあるんですね。

大事な事は、当時は菅原道真の子孫が全て出していましたが、碩学が出したものはその時代のまさに理想にかなったので採用される。採用されなくても別の時になれば、状況は変わってよりふさわしい。「平成」がそうであるように、幕末には適さなかったにしても、この30年前には非常に良いという可能性が出てくるわけですから、現在、組み合わせとして未採用年号は500以上ありますけども、そういうものは今後とも検討されて採用する可能性は少なくないと思います。

橋本

急に天皇が病気になられて間に合わないって時に使うものかなと思ったけど、そうとも限らないですね。

この時は3人で1人が7案ずつ、21案出ていますから20案残った。「明治」も「大正」もすべて過去に何度も出て採用されたという事があります。

大木

「大化」以来、日本で今までに使われた元号は247あるんです。247で使用した漢字は72文字なんです。同じ漢字が繰り返し使われているという事なんです。実は、案に挙がって未採用になった元号が確認されているだけで524あるという事なんですね。その524の案に使われて、まだ元号には使われていない漢字というのが106字あるわけですよ。可能性がある106文字だと思いませんか?この106文字よく見ますと、例えば「海」とか「恵」とか「清」とか、まだ一度も使われてないんだとちょっと意外に思うようなものもあるんですよね。

そうなんですよ、良い文字がいっぱいありましてね。しかも、これ以外もありますから、あまりそこに囚われる必要ないんですが、逆に言うと、従来使われてきた文字、それから未採用だけどここにはあった文字の優先順位が高いという風に思います。

橋本

使われてない字と組み合わせていっぱい良いものを作れると思いますけれども、典拠がないといけないんですよね。

大事なことで、現在の改元手続きの中にも必ず典拠を示して意味を示して出すことになっていますから。古典に基づくと、それがたまたま良いフレーズの中に一文字が入っていることが大事なんですね。

■「子供に名前をつけることと重なり合う」

大木

今回この新元号を分析する上で、さらに所さんが注目されたのがこちらです。明治安田生命の生まれ年別の名前調査・名前ランキング2018年のものを持ってきました。人気文字のベスト50というもので、男の子と女の子それぞれ入っているんですが、まず所さんに伺いたいのが注目されたのがこの名前の文字というのは何故だったんでしょうか?

私は名前を付けるということは、子供に名前つけると、子供の将来こうあってほしいとか理想とか希望を表明しますよね。同じように元号というのは、これからの時代に対する希望とか理想の表明ですから、漢字文化として共通するところもあると思いました。現在の名前にはこういう文字がよく使われると、意外な文字が僕にとってあるんですが、国民の理想と重ね合わせて考えれば、やはり可能性は見出せるんじゃないかと思います。

大木

本郷さん、この並びご覧になっていかがですか?

本郷

キラキラネームとかつけますよね。キラキラ年号、それもいいと思います。

大木

やっぱり、親は自分の子供名前をつける時は、将来明るく希望溢れるものと考えると。そこで、元号に付けるものと、ちょっと共通の部分もあるのかなと思うんですが、私たち今まで元号で使われていない106文字と、この人気の漢字を重ね合わせてみたんです。すると、どちらの表にも入っている漢字が6文字あったんです。「健・光・太・佑・悠・陽」やはり子供の名前につけるものが入っていますから未来が明るくてキラキラとした、輝くような名前が多いかなと。

橋本

右から2番目の「悠」は将来天皇になるべき方のお名前にもなっているので、多分使われないでしょうが、他の文字もすごくいいですよね。明るくて前向きな字。

山口

番組では、これまでの歴史を踏まえて、元号が一体どうなるのかということを考えてきた訳ですけれども。漢詩文研究家の小島先生も聖徳太子の十七条憲法から選んだり嵯峨天皇の漢詩から選ぶことでも良いんではないかという風にもおっしゃっています。日本の国文から選ばれる可能性も十分にあると思うんですけれども、いよいよ明日です。まず所さん明日の元号の発表への期待、今どんなこと考えていますか?

今回これだけ元号に関心を持たれて、皆さんが色んなことをおっしゃっていることは大変ありがたいと思います。元号が決まったら、多くの方に本当に親しまれて使われてこそ意味があるわけだから、今回のようなことがまさに今の陛下のご退位によって可能になった。その意味、大きいと思いますし、また漢字に対する関心が高まったということもあっていいと思います。

山口

本郷さんはいよいよ明日ですけれども、どんなことを期待しますか?

本郷

もう今日いっぱい喋ったので、みんなが使いたいものがあったらいいな、決まったらいいなと思います。

山口

大二郎さんいかがでしょうか?

橋本

国民統合の象徴としてどうあるべきかということを考えて天皇陛下の譲位、退位ということに繋がったので、国民統合の象徴という雰囲気を元号で出していけるのかなと。抽象的な事ですけど、これからそれも考えておかないけとないんじゃないかなと。

山口

川村さんお願いします。

川村

これだけ勉強しますと見ている視聴者の方も二文字のうちの一文字は当てたいなと。そういう雰囲気になっているんじゃないかなと思うので、それぞれやっぱり新しい時代にふさわしい一文字っていうのは考えてみたいなと思います。

(2019年3月31日放送)