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#235

熊谷6人殺害事件の遺族、加藤裕希さんの意見陳述全文

「これ以上、遺族を見捨てないでください」

■法廷で響き渡った加藤さんの言葉

2015年9月、埼玉県熊谷市で起きた連続殺人、熊谷6人殺害事件で、妻と2人の娘の命を奪われた加藤裕希さんは、当時の埼玉県警の対応を問う、国家賠償請求裁判を起こしています。2022年4月の一審判決は、加藤さんの訴えを退けました。控訴審の第1回口頭弁論が10月19日、東京高裁で開かれ、加藤さんは法廷で自らの意見を陳述しました。陳述内容の全文を掲載します。

私は原告の加藤裕希と申します。2015年9月16日、埼玉県熊谷市の自宅で妻の美和子、長女の美咲、次女の春花を殺害された遺族です。これから事件前後のことやその時の警察の対応などついてお話させて頂きます。事件前、私は一家4人で生活し、ささやかながらも幸せを感じていました。結婚以来、美和子とはほとんど喧嘩をした記憶がなく、とても気配りのできる妻でした。当時、美咲は小学5年生、春花は2年生でした。社交的な春花に比べ、姉の美咲は引っ込み思案で、新しいことに挑戦するのが苦手な性格でした。そんな美咲がある日、バドミントンクラブに入りたいと打ち明けました。事件発生3カ月前のことです。あの美咲が自分から何かをやると言い出したことに対し、美和子と私は嬉しい気持ちでいっぱいでした。

美咲はバドミントンクラブに通い続け、終了まで残すところあと2回まで頑張ったのです。事件発生の2週間ほど前にはこんなこともありました。美咲と春花が一緒に、文房具の買い出しのためにホームセンターまで20分かけて歩いていったのです。初めて見るその後ろ姿に、成長したんだなと、親としては感慨深い気持ちになりました。実は心配して自転車で後ろをついていったのですが、途中で娘たちに見つかってしまい、「なんでついてくるの? あっちいってよ!」と言われたのも、今となっては微笑ましい思い出です。そんな喜ばしい出来事が重なり、美和子も私も、娘たち2人のこれからの成長に期待を膨らませていたのです。

そんな矢先に事件が発生しました。まさかその日の朝まで一緒に過ごした家族3人の命が、一瞬のうちに奪われるとは思ってもみませんでした。仕事を終えて帰宅をすると、家族の中で生きているのは私1人だけでした。信じがたい現実を前に、深い悲しみと絶望感に打ちひしがれました。眠れぬ日々を過ごし、無事に葬儀を終えてひと段落した時に、近所に挨拶回りに行きました。すると、熊谷警察署から犯人が逃げ出していたこと、他の民家に不法侵入していたことを初めて知り、驚きと同時に怒りが込み上げてきました。私の家族が被害に遭う前に、警察は徹底的な捜査、および適切な対応を取っていなかったのか。地域住民に対し、もっと気の利いた注意喚起をなぜ行なってくれなかったのか。

この時に持ち始めた警察への不信感から、埼玉県警本部捜査一課長らとお会いし、疑問点をぶつけました。「警察の判断ミスではないのか」「なぜ防災無線を使わなかったのか」。誠意のある回答を求めましたが、捜査一課長は「場面場面で違法なことはなかった」と繰り返しお茶を濁すばかりで、その発言には到底納得できませんでした。せめて「こういう外国人が逃げている可能性がある」とお伝えいただければ、私の家族も対応の仕様があったと思います。県警側は「広報を通じて新聞やテレビで伝えた」「教育委員会を通じて学校に通知した」と説明していますが、果たしてそれだけで地域住民に対する注意喚起を十分行ったと言えるのでしょうか。我々住民の立場からしたら、メディアや教育委員会を通じた情報提供では、危機意識が高まるとは到底思えません。重要なのはやはり現場です。例えば防災無線で、あるいはパトカーで呼び掛けられたら、住民たちはもっと身近な逼迫した問題として受け取っていたのではないでしょうか。にもかかわらず、捜査一課長からは「その方法を思いつかなかった」と言われました。警察が「思いつかなかった」だけで、私の家族3人を含む6人もの尊い命が奪われてしまったのです。県警側は、殺人犯と確定していない段階で住民に周知するのは「不安を煽るだけ」とも主張しますが、それはただの言い訳や詭弁に過ぎません。

埼玉県警への不信感を持ったのは、私だけではありませんでした。現場付近の住民たちを中心に署名活動が広がり、注意喚起の不備や不審者情報がなかった点を指摘した上で、事件の検証を求める要望書が当時の埼玉県知事に提出されました。集まった署名は約4万筆です。それだけの数の住民も、警察への対応には疑問を感じていたのです。事件を教訓にした「熊谷モデル」と呼ばれる情報提供協定が、警察や自治体の間で結ばれたのも、熊谷警察が注意喚起を怠ったことを示す根拠になると強く感じています。もしあの時の警察の対応が十分であれば、そんなモデルは必要ないからです。

事件発生後、私は何度も死にたいという衝動に駆られました。3人を追いかけた方がよほど楽になれるのではないかと本気で思いました。捜査一課長にそう伝えたところ、「それはやめてほしい」と説教じみた言い方をされ、遺族感情を理解しようとしない対応にも深く傷つきました。その上、県警としてきちんとした謝罪もしてくれず、ある幹部は、私の自宅を訪問した際に、仏壇に線香すらあげずに帰って行ったのです。この場合、うっかり忘れていたという言い訳は通用しません。人の命を守る責務を負っている警察官が、人の命を軽んじていると受け取られても仕方がない、とても残念な行動でした。

警察官の方々にはこんな質問も投げかけました。「捜査を全うできたと思っていますか」。しかし、誰1人として「はい」と答えることなく、皆、押し黙っていました。ひょっとしたら埼玉県警の内部に、今回の対応に疑問を感じていた捜査員もいたのではないでしょうか。それが組織になると不備や違法性は認めませんが、当時の対応を後悔し、声を上げられなかった捜査員はいたはずです。実際、それに近い情報を耳にしたこともありますし、「熊谷署から逃げられた時点で警察の失態」と明言する捜査関係者もいました。

ご承知の通り、今年7月上旬、安倍晋三元首相が銃撃され、お亡くなりになりました。その後、警察庁は現場の警備体制を徹底的に検証し、警察庁の長官が警護警備の不備を認めて辞任するに至りました。その間わずか2ヶ月です。私の事件は、発生から7年が経過しましたが、埼玉県警はいまだに誰も責任をとっていません。亡くなった6人の中にもし、大物政治家が含まれていたら、「思いつかなかった」「気づかなかった」で済まされる問題でしょうか。安倍元首相の事件と現場の状況は異なると思いますが、私たちが一般市民だと、公権力の対応はこうも変わってしまうのかと、やはり疑いの目で見てしまいます。それほどまでに私は、もはや埼玉県警を信用できなくなったのです。これが引き金となって、私は強い人間不信にも陥りました。

私の父親は2年前に亡くなりましたが、警察の対応には到底納得できないと言い残し、この世を去りました。妻、美和子の母も、亡くなる2週間前に「どうして警察は守ってくれなかったんだろうか」と、病床で語っていた姿が忘れられません。

振り返れば、刑事裁判では一審で死刑判決が出たにもかかわらず、精神鑑定という実に曖昧な判断で、二審は無期懲役に減刑されました。検察も上告を断念し、日本の司法制度に裏切られたと感じました。毎年命日がやって来ると、その当時の悔しさ、やり場のない怒りがぶり返してきます。事件から7年が経ちますが、今も心の底から笑うことができません。私はいつになったら笑顔を取り戻すことができるのでしょうか。

民事裁判でも一審は埼玉県警の主張を認め、わたしたち遺族はまたしても裏切られたような思いです。その判決文はいまだに読むことができません。正直に申し上げると、破り捨てたい気持ちです。6人もの命が奪われ、その犯人はいまだに生き続け、市民の命を守るべき警察官が責任を問われない。それで後輩たちに「あとはよろしく頼むぞ」と定年を迎え、退官する。それでは時代を担う次の警察官たちに負の遺産を残していくだけです。これからの日本社会もよくならないと思います。このまま私たちの主張が受け入れられないのであれば、私は3人に対し「お父さん頑張ったよ」と伝えることができません。3人の遺骨が安置されている寺院に毎回お参りに行くときに、「お父さん何もしてないじゃないか」とは言われたくありません。怖い思いをした3人の命を無駄にしないためにも、せめて私なりに頑張ったと胸を張って言える人生にしたいのです。最後に。これ以上、遺族を見捨てないでください。是非、公正なご判断をよろしくお願いいたします。

■この裁判の控訴審には、当時、『ワイド!スクランブル』MCとして事件を報じた橋本大二郎さんが意見書を提出しました。その全文は、こちらです。

⇒ 「地域の安全と安心を守るために… 問われる“ものの見方”」熊谷6人殺害・国賠訴訟控訴審 橋本大二郎さん意見書全文

■日曜スクープでの放送内容はこちらです。

⇒ 2022年10月23日放送 熊谷6人殺害“警察の対応を問う”控訴審開始 遺族の決意と争点