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~芸とおもてなしの文化~ あなたの知らない花街の魅力をご紹介します。
▼つながって増やす仕組みで広がる太陽光発電
長野県は、山深く雪の多い地域というイメージがないだろうか? 上田市は、その印象を覆す。1年を通して晴天率が高く、年間の日照時間は2200時間を超え、東京を上回る。冬場も、山間部を除けばほとんど雪が積もらない。
長野県・上田市 日本有数の少雨乾燥地帯で一年を通じて晴天率が高い この恵まれた気象条件を活かして、住宅や店舗、工場などの屋根にソーラーパネルを設置する活動を進めているのが、NPO法人「上田市民エネルギー」。2011年に「相乗りくん」という独自の仕組みをスタートさせ、現在は約960キロワット、一般家庭およそ300世帯の年間使用量を超える電力を生み出している。 「相乗りくん」は、とてもユニークな仕組みだ。詳細は後に記すが、一部を紹介しよう。まず、NPOが屋根のスペースを提供する「屋根オーナー」と、その屋根に設置するソーラーパネルに出資する「パネルオーナー」を募る。 NPOが両者をつなぐことで、屋根オーナーは自己負担ゼロでソーラーパネルによる太陽光発電を導入できるうえ、その電力を使うことで電気料金を安く抑えることができる。そして、余った電力を電力会社に売って得た収入も充てての毎月の支払いは、NPOを通して「パネルオーナー」に還元される。 パネルオーナーの契約期間は、パネルの規模によって10年か13年。2011年にこの取り組みが始まってからこれまで1億8000万円を超える出資を集めた。 住宅だけでなく、学校、企業、農場など、72箇所に太陽光パネルを設置してきた 市民が主人公になって自分たちの自然エネルギーを生み出すこの仕組みは高く評価され、2018年に開催された「第6回グッドライフアワード」では、地域コミュニティ部門で環境大臣賞を受賞している。
上田市民エネルギーの発起人であり、現在も先頭に立って同NPOを率いるのは、理事長の藤川まゆみさん。寿司チェーンでアルバイトをするシングルマザーだった彼女がなぜ、全国的に注目されるNPOの代表に就いたのだろうか?
▼25歳で「受験は扱わない」塾を開く
藤川さんは、広島県福山市にあるお寺の家で生まれた。大阪の大学に通っていた時はインド・イスラム文化を学びながら、プロのミュージシャンを目指してバンド活動に励んだ。大学卒業後も2年ほど大阪で夢を追っていたが、ボーカルとして所属していたバンドが解散。「これからどうしようかな……」と悩んでいた時、たまたま手に取った一冊の本が最初の転機をもたらす。 「豚を解体するところから食を学ぶような、体験型の教育をしている小学校の先生が書いた本でした。その本を1冊読んだだけで、これだ! と思ったんですよね」 それまで子どもにも、教育にもさほど興味がなかったにもかかわらず、なにかに衝き動かされるように帰郷。高校時代に通った進学塾で短期間働いた後、25歳の藤川さんは「子どもたちがもっとイキイキとするような場を作りたい」と、実家のお寺で小学生向けの学習塾を開いた。 「受験は扱わない」と宣言し、「私が子どもの頃に受けたかったような授業」を考えた。例えば隔週の土曜日には「なんでも体験」と称して、みんなで餃子を作ったり、ミュージシャンやダンサーをゲストに招いたり。この個性的な塾に、常時20人から30人の子どもたちが通っていたという。 「遊ぶ塾だって噂されていましたね(笑)。なかにはすごく頭のいい子もいましたし、荒れていて、家では大変だと言われていた子もいました。その子が塾では割と素直に過ごしていて、うちの父が『すごい』って驚いたこともあったなあ」 実家の寺境内で塾を始める 子ども達とゴミ袋で作ったバルーンの前で 塾を始めて3、4年ほど経った頃、大阪の友人を通じて、千葉県立千葉盲学校の生徒が作ったひと抱えもある粘土の作品の写真を見る機会があった。その写真から溢れるようなパワーを感じた藤川さんは、「大阪で展示をする」という友人に、「福山でもやりたい!」と伝えた。それが縁となり、千葉県立千葉盲学校に足を運ぶと、そこでは生徒たちが驚くほど伸び伸びと過ごしていた。 「私もこの学校に通いたかった」と感じるほど、溌溂とした生徒たちに心を掴まれた藤川さん。この出会いが、後の人生にも大きな影響を与えることになる。
▼「私も盲学校の生徒たちのように自分のなかにある力を発揮したい」
それから教育に目覚め……という展開にはならない。まだ二十代だった藤川さんは「ちょっと飽きちゃって」、盲学校の生徒の作品を福山で展示した後、塾を閉めた。その後2年間は、福山に戻ってから学んだ気功がきっかけで始めたマッサージの仕事をしながら、休みを取ってはインドやタイなどを旅行。32歳の時に結婚し、夫の仕事の都合で大阪へ移った。
インドを旅した30歳の頃
パートをしながら主婦をしていた藤川さんの生活が一変したのは、37歳で出産してから。子どもが1歳の時に参加した地域の子育て支援グループが、女性や児童の権利などについて学びを共有する活動をしていた。そこで「セルフエスティーム(自己肯定感)」という言葉を知り、盲学校とその生徒たちの姿が脳裏に蘇る。 「人は存在を肯定してもらえる環境にいると、自分でも自分を肯定しながら、もともと持っている力を発揮できるんだ。だから、彼らはパワフルな作品が作れるんだ。人はみんな種を持っていて、そこに水が注がれたら芽を出す。その芽を丁寧に育てれば、花が咲く」 この気づきを得て胸のうちに湧き上がった「私も盲学校の生徒たちのように自分の中に眠っている本来の力を発揮したい」という思いが、藤川さんの熱源になる。 ちょうどその頃、会社員をしていた夫がパン職人への転職を目指していた。藤川さんも、その背中を押し、天然酵母パンの先駆け的存在である有名ベーカリー「ルヴァン」の信州上田店に勤務が決まる。息子を連れて三人で上田に移住したのは2005年の秋だった。
▼人生を変えた一本の映画
「パン屋の女将をするつもりだった」という藤川さんだが、一本の映画によって環境やエネルギーがライフワークになる道を歩み始める。移住の翌年、松本市で観た鎌仲ひとみ監督の『六ヶ所村ラプソディー』。核燃料再処理施設を抱える六ヶ所村で暮らす住民にカメラを向け、それぞれの思いや生活を映し出すドキュメンタリーだ。 「映画を観た後、心が揺さぶられて言葉になりませんでした。原発反対派の人だけじゃなくて、原発に賛成している人や再処理施設で仕事してる人たちのこと否定してない作り方をしていて、あなたはどう思う? と問いかけてくる。私にとって、この映画のテーマはコミュニケーションなんですよ。監督は意見がぜんぜん違う人たちとコミュニケーションを繰り返して、映画に撮るところまで信頼関係を築いた。それが本当にすごいと思いました」 以前から原発には反対だったが、シュプレヒコールをあげるようないわゆる「反対運動」はできないなと思っていた藤川さんは、鎌仲監督のアプローチに衝撃を受けた。もし、賛成と反対が分かれるようなことが上田で起きた時、異なる立場の意見をシャットアウトするのではなく、鎌仲監督のように十分にコミュニケーションを取りながら結論を出したい。それが地域の分断を避け、多様な人たちが共存するために必要だ――。そう考えた藤川さんは2007年、『六ヶ所村ラプソディー』を上田のみんなと観たい! と、映画上映実行委員会「六ヶ所会議inうえだ」を設立。 映画上映実行委員会「六ヶ所会議inうえだ」には老若男女が集った
鎌仲監督をゲストに迎えた上映会を皮切りに、環境やエネルギーに関するワークショップなどを開きながら、住民たちが対話する場を作るようになった。バンド時代はボーカルとして人前に立っていたし、故郷で塾をしている時も、大阪の子育て支援グループでもイベントや展示会を企画していたから、慣れたものだった。 この頃、パン職人として修業していた夫と離婚。シングルマザーとしてかっぱ寿司でパートをしながら活動を続けていた藤川さんの人生を大きく変えたのは、2011年3月11日に起きた東日本大震災だった。
▼目からうろこのアイデア
震災後の7月に設けられた、「自然エネルギー信州ネット」。これは県内の自治体、企業、団体が連携し、自然エネルギーの普及、拡大を目指すもので、長野県では正式に発足する前の5月に設立準備会が催された。その会ではアドバイザーとして環境エネルギー政策研究所所長の飯田哲也さんも参加。自然エネルギーを普及させるためには、「地域にプラットフォームを作ること」「地域主導のビジネスを立ち上げること」の2点が重要だと強調した。 仲間3人と準備会に参加していた藤川さんは、「ビジネス」という言葉を遠く感じていた。原発事故が起きて、自然エネルギーへの切り替えが急務だと思っていた。しかし、それでお金を稼ぐなんて、いち市民には想像もつかない。上田への帰りの車中、藤川さんは「ビジネスなんて無理だよね」と呟いた。それを聞いた仲間のひとり、合原亮一さんが、言った。 「いや、できるんじゃない?」 彼は上田市の晴天率の高さに加え、かつて「蚕都」と呼ばれるほど蚕糸業が盛んだった上田市には、自宅の2階で蚕を育てるために南向きの広い屋根を持つ家が多いことを挙げ、「ほかの人がお金を出して、屋根のスペースにみんなでお金を出しあってソーラーパネルを置かせてもらえばいい」と話した。 そう、現在も続けている「相乗りくん」のアイデアは、車のなかの雑談から生まれたのだ。ほかの3人にとっては思いもよらぬ発想で、「それはすごい!」「やろう!」と盛り上がった。それから、このアイデアを実現するために何度もミーティングが開かれ、詳細を詰めていった。その間に藤川さんはかっぱ寿司のパートを辞め、3カ月の職業訓練でパソコンと簿記を習い始めた。 就職指導の面接を受けた際、担当の先生から「息子さんもいるし、このままじゃ立ち行かなくなりますよ。介護やケアマネジャーの資格を取ったほうがいい」と諭された。そこで藤川さんは、「私、やりたいことがあって。ぜんぜん自信ないんですけど、自然エネルギーを増やす仕事をしたいんです」と、ソーラーパネルのアイデアを説明した。 とはいえ、その時点ではなにも具体的に決まっていなかったから、藤川さん自身、ふわっとした話だと自覚していて、話しながら泣いてしまった。しかし、話を聞いた先生は意外な言葉を口にした。 「ビジネスは簡単じゃないので、それは本当によく考えないといけないんですけど、 藤川さんならできますよ」 夢のような話を肯定されて耳を疑った藤川さんは、なぜそう思ったのかを聞きそびれた。ただ、就職指導の先生が「できる」と肯定してくれたことは、大きな励みになった。
▼運命の説明会
職業訓練を受けながら仲間たちとミーティングを重ね、ようやく「相乗りくん」の仕組みが整った時、「ところでこれは誰がやるのか?」という話題になった。発案者の合原さんを含め、ほかの3人はみな経営者や団体の代表で、自分の事業がある。3人は口を揃えた。「当然、藤川さんでしょう」。 そこで即答はできなかった。ビジネスを知らない自分に務まるのか……という不安。一度始めたら、簡単には辞められないという責任。どうしようと揺れる藤川さんの気持ちに最後の一押しをもたらしたのは、地域の人のネットワークだった。 「震災の年の8月頃、上田で10年近く地域通貨の活動しているグループの人たちと、関東の地域通貨の視察ツアーに行きました。そのバスのなかでそれぞれが近況報告をすることになり、私も『相乗りで太陽光パネルを増やす事業」をやろうと思っています』と話しました。その時、メンバーのひとりの男性が『僕、参加しますよ、お金出します』と言ってくれたんです。振り返ってみれば、私が離婚して息子とアパートに移った時、この地域通貨のグループの人たちがこたつや冷蔵庫をくれて、『困ったら言いなよ』と支えてくれました。それを思い出して、『この人と人のネットワークがある上田ならできるかもしれない』と思ったんです」
2011年10月、上田市民エネルギー設立。翌月、最初の説明会を開くと、「六ヶ所会議inうえだ」を始めた2007年以来、市民活動を続けてきた藤川さんの仲間たちが大勢詰めかけた。 そこで第一回の「相乗りくん」の参加説明を行った。ひと通り説明が終わって来場者に参加を呼びかけると、屋根オーナーが2人、パネルオーナーが10人、その場で参加申込みをしてくれた。「どうなるかわからない、怖くて予想もできない」と思っていた藤川さんの胸が、じんわりと熱くなった。 相乗りくんの仕組みは徐々に進化しているが、現在の仕組みは以下の通りだ。 屋根のスペースを提供する「屋根オーナー」は、初期の自己負担ゼロでソーラーパネルを設置可能で、太陽光発電の安価な電力を使用でき、余った電力は電力会社に売電できる。そして毎月、上田市民エネルギーへパネルの量に応じ算出された支払いを行う。屋根オーナーの支払いはソーラーパネルに出資する「パネルオーナー」に還元される。屋根オーナーの契約期間はパネルの規模によって12年か17年で、契約終了後はすべてのソーラーパネルが屋根オーナーに譲渡される。「パネルオーナー」は全国どこからでも参加可能で、出資は10万円から。保証されないものの、契約期間内に出資金額を上回る売電収入を期待できる。
※注1:上記記事の出資と収入に関しては、2023年11月時点での実績となっており、今後の成果が保証されているものではありません。出資をご検討される場合は、上記の点も鑑みた上で、ご自身の判断でお願い申し上げます。
▼途切れることのない出資者
こうして幸先のいいスタートを切った上田市民エネルギー。説明会の後、さらに出資者が増え、「相乗りくん」による発電は2012年3月、3軒の家で約25キロワットから始まった。 「3軒のうち1軒はモデル事業ということで、NPOの理事に就いた合原さんの自宅の屋根で、別の理事が出資しました。かつて養蚕をしていた武田さんという70代の方のお宅には8人、もう1軒は 3人が出資しました。この11人はひとりを除いて全員上田の顔の見える方々でした。」
一緒に動いてきた仲間たちが活動を支えてくれた
それから11年。先述したように出資金額は1億8000万円を超え、72軒の建物に約960キロワットのソーラーパネルを設置し、一般家庭およそ300世帯の年間使用量に相当するエネルギーを発電するまでに成長した。これまですべてのパネルオーナーが出資金を上回る収入を得ているというから、「相乗りくん」の仕組みがいかに優れているのかわかるだろう。とんとん拍子ですね、というと藤川さんはほほ笑んだ。 「慣れていなかった最初の1、2年はギリギリの気持ちでやっていました。それでも幸い、最初の説明会以来、コンスタントに出資者が現れて、設置費用に困らなかったことが大きいですね。急に大きな屋根が決まると必死で呼びかけて、2週間で800万円集めたこともあります」 藤川さんが「ギリギリだった」と振り返る最初の年、エネルギーのイベントで出会った自然エネルギーやまちづくりに詳しく、徐々に相乗りくんの事業をサポートしてくれるようになった人がいる。そのうち世田谷から上田に引っ越してきて、息子が大学に入るタイミングで入籍したのが今の夫だ。現在は公私ともにパートナーとして、活動のほとんどを一緒に進めている。パートナーが同じビジョンを持っていることが、藤川さんのあきらめず成果を生もうとするエネルギーの支えになってきた。 「相乗りくん」を軌道に乗せた藤川さんは、新たな取り組みを始めている。記録的な猛暑だった2018年以降、気候変動に危機感を抱いたことから、長野県内の学校を中心に「断熱ワークショップ」を手掛けているのだ。断熱をしっかりすることで冷暖房のエネルギー効率が改善され、二酸化炭素(CO2)の排出削減につながる。 「断熱ワークショップは社会的な効果がとても高い取組みです。学校で実施することで生徒や教員の意識も高まりますし、教育委員会や近隣の工務店、事業者も協力してくれるようになりました。最終的には日本中の学校の教室が断熱改修されるよう、最近は国にも呼び掛けています」 さらに、市民と行政、地域の企業を結ぶ学びと対話の場「上田リバース会議」を立ち上げ、まちづくりにも声をあげるようになった。
▼「県政史上最高」のパブリックコメントが行政を動かす
自然エネルギーの普及から気候変動対策、まちづくりにまで活動が広がった藤川さんは、今や、長野県内でも知られた存在だ。 世界的な脱炭素の流れのなかで2020年、長野県が「ゼロカーボン戦略」として「2030年までに48パーセント削減」という目標を発表した。それは藤川さんにとって、謙虚過ぎる数字だった。長野県は東日本大震災の前から積極的に自然エネルギーの導入を進めており、都道府県のどこよりも早く気候非常事態宣言を出すなど、国内でも環境や気候変動対策のトップランナーとして知られる。 それなのに、「2030年までに46%」という国の目標に2%しか上積みされていないのはどういうこと? 長野県ならもっと削減できると感じた藤川さんは、これまで培ったネットワークを通じて県庁にパブリックコメントを送るように呼び掛けた。加えて、県の担当者にアプローチしたり、パブリックコメントを書く会などを開いて市民と意見交換の場を設けた。 こういった動きが、「県政史上最高」という180通のパブリックコメントにつながった。また、スウェーデンの環境活動家、グレタ・トゥーンベリさんが始めた運動「フライデーズ・フォー・フューチャー」に共感する団体、「フライデーズ・フォー・フューチャー・ジャパン」などの若い世代も藤川さんたちの動きに呼応し、長野県知事に100通近い応援メッセージを送信。その結果、2021年6月、長野県は目標を大幅に引き上げ、「2030年までに60パーセント削減」と発表した。 「パブコメって形式的なものだというイメージがあるけど、市民が声を上げるってすごい力なんだと実感しました。行政に疑問を感じた時、クレームを入れたり、なにを言ってもダメだと投げ出すのではなく、対話しながらタッグを組む。行政と一緒にそういうことができるんだと感じた最初の経験でしたね」 長野県を動かしたのは、藤川さんが映画『六ヶ所村ラプソディー』を観て学び、長らく実践してきたコミュニケーションの力だった。
▼理想の上田市とは?
今、藤川さんは上田市と連携して、地域の課題解決に挑む機会が増えている。人口が減り、事業者の売り上げも、固定資産税も減少の一途、公共施設やインフラは老朽化し、まちなかは駐車場だらけでスポンジ化が進むなど、課題は山積み。その逆境のなかで、どうやって魅力的な町にしていくのか。藤川さんが今、目をつけているのは「公共交通」だ。 「車は維持費も高いから、今後の世代はひとり一台持てないでしょう。高齢化で免許返納も進みますよね。だからもう、車じゃなくて、バスや電車でまちなかに出るというデザインにする。そうしてまちなかを歩く人が増えれば店舗の売り上げも増えるし、公共交通が元気になれば、駅の近くの人口密度が高まって、お店や病院が成り立ちやすくなる。公共交通を立て直してみんなが乗るようになれば、まちが変わります」 藤川さんは、上田の駅から北に路面電車を走らせようとデザイン会議を開いたり、上田市と一緒に考えた、上田市内を走る鉄道「別所線」を地域住民の太陽光発電で動かすプロジェクトが環境省脱炭素先行地域に選定されたりしている。これらアイデアは、車の排ガスが減ることによる脱炭素やエネルギーシフトにもつながっているのだ。
路面電車や自動運転EVバスがまちなかを走る未来の上田イメージ (藤川さんが地域の仲間と企画した「上田まちなかデザイン会議」で発表した)
上田で太陽光発電や断熱を推し進め、今はすべてがリンクしたサステイナブルなまちづくりにまい進する藤川さん。最後に、これからどういう町になってほしいですか? 理想の上田とは? と尋ねると、いかにも彼女らしい答えが返ってきた。 「こういうまちを作りたいって、みんなが選んでつくるまちですね。コミュニケーションしながら、みんなで決めたまちの形になっていくのがいいなあ」
「バトンタッチ SDGsはじめてます」 藤川まゆみさんの回は11月25日18時半~より放送 放送終了後、期間限定で無料配信もしております。
著者プロフィール
川内イオ
稀人ハンター 1979年生まれ。ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。2006年から10年までバルセロナ在住。全国に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に広く伝えることで「誰もが個性きらめく稀人になれる社会」を目指す。この目標を実現するために、2023年3月より、「稀人ハンタースクール」開校。全国に散らばる一期生とともに、稀人の発掘を加速させる。近著に『稀食満面 そこにしかない「食の可能性」を巡る旅』(主婦の友社)。
▼つながって増やす仕組みで広がる太陽光発電
長野県は、山深く雪の多い地域というイメージがないだろうか? 上田市は、その印象を覆す。1年を通して晴天率が高く、年間の日照時間は2200時間を超え、東京を上回る。冬場も、山間部を除けばほとんど雪が積もらない。
長野県・上田市 日本有数の少雨乾燥地帯で一年を通じて晴天率が高い
この恵まれた気象条件を活かして、住宅や店舗、工場などの屋根にソーラーパネルを設置する活動を進めているのが、NPO法人「上田市民エネルギー」。2011年に「相乗りくん」という独自の仕組みをスタートさせ、現在は約960キロワット、一般家庭およそ300世帯の年間使用量を超える電力を生み出している。
「相乗りくん」は、とてもユニークな仕組みだ。詳細は後に記すが、一部を紹介しよう。まず、NPOが屋根のスペースを提供する「屋根オーナー」と、その屋根に設置するソーラーパネルに出資する「パネルオーナー」を募る。
NPOが両者をつなぐことで、屋根オーナーは自己負担ゼロでソーラーパネルによる太陽光発電を導入できるうえ、その電力を使うことで電気料金を安く抑えることができる。そして、余った電力を電力会社に売って得た収入も充てての毎月の支払いは、NPOを通して「パネルオーナー」に還元される。
パネルオーナーの契約期間は、パネルの規模によって10年か13年。2011年にこの取り組みが始まってからこれまで1億8000万円を超える出資を集めた。
住宅だけでなく、学校、企業、農場など、72箇所に太陽光パネルを設置してきた
市民が主人公になって自分たちの自然エネルギーを生み出すこの仕組みは高く評価され、2018年に開催された「第6回グッドライフアワード」では、地域コミュニティ部門で環境大臣賞を受賞している。
上田市民エネルギーの発起人であり、現在も先頭に立って同NPOを率いるのは、理事長の藤川まゆみさん。寿司チェーンでアルバイトをするシングルマザーだった彼女がなぜ、全国的に注目されるNPOの代表に就いたのだろうか?
▼25歳で「受験は扱わない」塾を開く
藤川さんは、広島県福山市にあるお寺の家で生まれた。大阪の大学に通っていた時はインド・イスラム文化を学びながら、プロのミュージシャンを目指してバンド活動に励んだ。大学卒業後も2年ほど大阪で夢を追っていたが、ボーカルとして所属していたバンドが解散。「これからどうしようかな……」と悩んでいた時、たまたま手に取った一冊の本が最初の転機をもたらす。
「豚を解体するところから食を学ぶような、体験型の教育をしている小学校の先生が書いた本でした。その本を1冊読んだだけで、これだ! と思ったんですよね」
それまで子どもにも、教育にもさほど興味がなかったにもかかわらず、なにかに衝き動かされるように帰郷。高校時代に通った進学塾で短期間働いた後、25歳の藤川さんは「子どもたちがもっとイキイキとするような場を作りたい」と、実家のお寺で小学生向けの学習塾を開いた。
「受験は扱わない」と宣言し、「私が子どもの頃に受けたかったような授業」を考えた。例えば隔週の土曜日には「なんでも体験」と称して、みんなで餃子を作ったり、ミュージシャンやダンサーをゲストに招いたり。この個性的な塾に、常時20人から30人の子どもたちが通っていたという。
「遊ぶ塾だって噂されていましたね(笑)。なかにはすごく頭のいい子もいましたし、荒れていて、家では大変だと言われていた子もいました。その子が塾では割と素直に過ごしていて、うちの父が『すごい』って驚いたこともあったなあ」
実家の寺境内で塾を始める 子ども達とゴミ袋で作ったバルーンの前で
塾を始めて3、4年ほど経った頃、大阪の友人を通じて、千葉県立千葉盲学校の生徒が作ったひと抱えもある粘土の作品の写真を見る機会があった。その写真から溢れるようなパワーを感じた藤川さんは、「大阪で展示をする」という友人に、「福山でもやりたい!」と伝えた。それが縁となり、千葉県立千葉盲学校に足を運ぶと、そこでは生徒たちが驚くほど伸び伸びと過ごしていた。
「私もこの学校に通いたかった」と感じるほど、溌溂とした生徒たちに心を掴まれた藤川さん。この出会いが、後の人生にも大きな影響を与えることになる。
▼「私も盲学校の生徒たちのように自分のなかにある力を発揮したい」
それから教育に目覚め……という展開にはならない。まだ二十代だった藤川さんは「ちょっと飽きちゃって」、盲学校の生徒の作品を福山で展示した後、塾を閉めた。その後2年間は、福山に戻ってから学んだ気功がきっかけで始めたマッサージの仕事をしながら、休みを取ってはインドやタイなどを旅行。32歳の時に結婚し、夫の仕事の都合で大阪へ移った。
インドを旅した30歳の頃
パートをしながら主婦をしていた藤川さんの生活が一変したのは、37歳で出産してから。子どもが1歳の時に参加した地域の子育て支援グループが、女性や児童の権利などについて学びを共有する活動をしていた。そこで「セルフエスティーム(自己肯定感)」という言葉を知り、盲学校とその生徒たちの姿が脳裏に蘇る。
「人は存在を肯定してもらえる環境にいると、自分でも自分を肯定しながら、もともと持っている力を発揮できるんだ。だから、彼らはパワフルな作品が作れるんだ。人はみんな種を持っていて、そこに水が注がれたら芽を出す。その芽を丁寧に育てれば、花が咲く」
この気づきを得て胸のうちに湧き上がった「私も盲学校の生徒たちのように自分の中に眠っている本来の力を発揮したい」という思いが、藤川さんの熱源になる。
ちょうどその頃、会社員をしていた夫がパン職人への転職を目指していた。藤川さんも、その背中を押し、天然酵母パンの先駆け的存在である有名ベーカリー「ルヴァン」の信州上田店に勤務が決まる。息子を連れて三人で上田に移住したのは2005年の秋だった。
▼人生を変えた一本の映画
「パン屋の女将をするつもりだった」という藤川さんだが、一本の映画によって環境やエネルギーがライフワークになる道を歩み始める。移住の翌年、松本市で観た鎌仲ひとみ監督の『六ヶ所村ラプソディー』。核燃料再処理施設を抱える六ヶ所村で暮らす住民にカメラを向け、それぞれの思いや生活を映し出すドキュメンタリーだ。
「映画を観た後、心が揺さぶられて言葉になりませんでした。原発反対派の人だけじゃなくて、原発に賛成している人や再処理施設で仕事してる人たちのこと否定してない作り方をしていて、あなたはどう思う? と問いかけてくる。私にとって、この映画のテーマはコミュニケーションなんですよ。監督は意見がぜんぜん違う人たちとコミュニケーションを繰り返して、映画に撮るところまで信頼関係を築いた。それが本当にすごいと思いました」
以前から原発には反対だったが、シュプレヒコールをあげるようないわゆる「反対運動」はできないなと思っていた藤川さんは、鎌仲監督のアプローチに衝撃を受けた。もし、賛成と反対が分かれるようなことが上田で起きた時、異なる立場の意見をシャットアウトするのではなく、鎌仲監督のように十分にコミュニケーションを取りながら結論を出したい。それが地域の分断を避け、多様な人たちが共存するために必要だ――。そう考えた藤川さんは2007年、『六ヶ所村ラプソディー』を上田のみんなと観たい! と、映画上映実行委員会「六ヶ所会議inうえだ」を設立。
映画上映実行委員会「六ヶ所会議inうえだ」には老若男女が集った
鎌仲監督をゲストに迎えた上映会を皮切りに、環境やエネルギーに関するワークショップなどを開きながら、住民たちが対話する場を作るようになった。バンド時代はボーカルとして人前に立っていたし、故郷で塾をしている時も、大阪の子育て支援グループでもイベントや展示会を企画していたから、慣れたものだった。
この頃、パン職人として修業していた夫と離婚。シングルマザーとしてかっぱ寿司でパートをしながら活動を続けていた藤川さんの人生を大きく変えたのは、2011年3月11日に起きた東日本大震災だった。
▼目からうろこのアイデア
震災後の7月に設けられた、「自然エネルギー信州ネット」。これは県内の自治体、企業、団体が連携し、自然エネルギーの普及、拡大を目指すもので、長野県では正式に発足する前の5月に設立準備会が催された。その会ではアドバイザーとして環境エネルギー政策研究所所長の飯田哲也さんも参加。自然エネルギーを普及させるためには、「地域にプラットフォームを作ること」「地域主導のビジネスを立ち上げること」の2点が重要だと強調した。
仲間3人と準備会に参加していた藤川さんは、「ビジネス」という言葉を遠く感じていた。原発事故が起きて、自然エネルギーへの切り替えが急務だと思っていた。しかし、それでお金を稼ぐなんて、いち市民には想像もつかない。上田への帰りの車中、藤川さんは「ビジネスなんて無理だよね」と呟いた。それを聞いた仲間のひとり、合原亮一さんが、言った。
「いや、できるんじゃない?」
彼は上田市の晴天率の高さに加え、かつて「蚕都」と呼ばれるほど蚕糸業が盛んだった上田市には、自宅の2階で蚕を育てるために南向きの広い屋根を持つ家が多いことを挙げ、「ほかの人がお金を出して、屋根のスペースにみんなでお金を出しあってソーラーパネルを置かせてもらえばいい」と話した。
そう、現在も続けている「相乗りくん」のアイデアは、車のなかの雑談から生まれたのだ。ほかの3人にとっては思いもよらぬ発想で、「それはすごい!」「やろう!」と盛り上がった。それから、このアイデアを実現するために何度もミーティングが開かれ、詳細を詰めていった。その間に藤川さんはかっぱ寿司のパートを辞め、3カ月の職業訓練でパソコンと簿記を習い始めた。
就職指導の面接を受けた際、担当の先生から「息子さんもいるし、このままじゃ立ち行かなくなりますよ。介護やケアマネジャーの資格を取ったほうがいい」と諭された。そこで藤川さんは、「私、やりたいことがあって。ぜんぜん自信ないんですけど、自然エネルギーを増やす仕事をしたいんです」と、ソーラーパネルのアイデアを説明した。
とはいえ、その時点ではなにも具体的に決まっていなかったから、藤川さん自身、ふわっとした話だと自覚していて、話しながら泣いてしまった。しかし、話を聞いた先生は意外な言葉を口にした。
「ビジネスは簡単じゃないので、それは本当によく考えないといけないんですけど、 藤川さんならできますよ」
夢のような話を肯定されて耳を疑った藤川さんは、なぜそう思ったのかを聞きそびれた。ただ、就職指導の先生が「できる」と肯定してくれたことは、大きな励みになった。
▼運命の説明会
職業訓練を受けながら仲間たちとミーティングを重ね、ようやく「相乗りくん」の仕組みが整った時、「ところでこれは誰がやるのか?」という話題になった。発案者の合原さんを含め、ほかの3人はみな経営者や団体の代表で、自分の事業がある。3人は口を揃えた。「当然、藤川さんでしょう」。
そこで即答はできなかった。ビジネスを知らない自分に務まるのか……という不安。一度始めたら、簡単には辞められないという責任。どうしようと揺れる藤川さんの気持ちに最後の一押しをもたらしたのは、地域の人のネットワークだった。
「震災の年の8月頃、上田で10年近く地域通貨の活動しているグループの人たちと、関東の地域通貨の視察ツアーに行きました。そのバスのなかでそれぞれが近況報告をすることになり、私も『相乗りで太陽光パネルを増やす事業」をやろうと思っています』と話しました。その時、メンバーのひとりの男性が『僕、参加しますよ、お金出します』と言ってくれたんです。振り返ってみれば、私が離婚して息子とアパートに移った時、この地域通貨のグループの人たちがこたつや冷蔵庫をくれて、『困ったら言いなよ』と支えてくれました。それを思い出して、『この人と人のネットワークがある上田ならできるかもしれない』と思ったんです」
2011年10月、上田市民エネルギー設立。翌月、最初の説明会を開くと、「六ヶ所会議inうえだ」を始めた2007年以来、市民活動を続けてきた藤川さんの仲間たちが大勢詰めかけた。
そこで第一回の「相乗りくん」の参加説明を行った。ひと通り説明が終わって来場者に参加を呼びかけると、屋根オーナーが2人、パネルオーナーが10人、その場で参加申込みをしてくれた。「どうなるかわからない、怖くて予想もできない」と思っていた藤川さんの胸が、じんわりと熱くなった。
相乗りくんの仕組みは徐々に進化しているが、現在の仕組みは以下の通りだ。
屋根のスペースを提供する「屋根オーナー」は、初期の自己負担ゼロでソーラーパネルを設置可能で、太陽光発電の安価な電力を使用でき、余った電力は電力会社に売電できる。そして毎月、上田市民エネルギーへパネルの量に応じ算出された支払いを行う。屋根オーナーの支払いはソーラーパネルに出資する「パネルオーナー」に還元される。屋根オーナーの契約期間はパネルの規模によって12年か17年で、契約終了後はすべてのソーラーパネルが屋根オーナーに譲渡される。「パネルオーナー」は全国どこからでも参加可能で、出資は10万円から。保証されないものの、契約期間内に出資金額を上回る売電収入を期待できる。
※注1:上記記事の出資と収入に関しては、2023年11月時点での実績となっており、今後の成果が保証されているものではありません。出資をご検討される場合は、上記の点も鑑みた上で、ご自身の判断でお願い申し上げます。
▼途切れることのない出資者
こうして幸先のいいスタートを切った上田市民エネルギー。説明会の後、さらに出資者が増え、「相乗りくん」による発電は2012年3月、3軒の家で約25キロワットから始まった。
「3軒のうち1軒はモデル事業ということで、NPOの理事に就いた合原さんの自宅の屋根で、別の理事が出資しました。かつて養蚕をしていた武田さんという70代の方のお宅には8人、もう1軒は 3人が出資しました。この11人はひとりを除いて全員上田の顔の見える方々でした。」
一緒に動いてきた仲間たちが活動を支えてくれた
それから11年。先述したように出資金額は1億8000万円を超え、72軒の建物に約960キロワットのソーラーパネルを設置し、一般家庭およそ300世帯の年間使用量に相当するエネルギーを発電するまでに成長した。これまですべてのパネルオーナーが出資金を上回る収入を得ているというから、「相乗りくん」の仕組みがいかに優れているのかわかるだろう。とんとん拍子ですね、というと藤川さんはほほ笑んだ。
「慣れていなかった最初の1、2年はギリギリの気持ちでやっていました。それでも幸い、最初の説明会以来、コンスタントに出資者が現れて、設置費用に困らなかったことが大きいですね。急に大きな屋根が決まると必死で呼びかけて、2週間で800万円集めたこともあります」
藤川さんが「ギリギリだった」と振り返る最初の年、エネルギーのイベントで出会った自然エネルギーやまちづくりに詳しく、徐々に相乗りくんの事業をサポートしてくれるようになった人がいる。そのうち世田谷から上田に引っ越してきて、息子が大学に入るタイミングで入籍したのが今の夫だ。現在は公私ともにパートナーとして、活動のほとんどを一緒に進めている。パートナーが同じビジョンを持っていることが、藤川さんのあきらめず成果を生もうとするエネルギーの支えになってきた。
「相乗りくん」を軌道に乗せた藤川さんは、新たな取り組みを始めている。記録的な猛暑だった2018年以降、気候変動に危機感を抱いたことから、長野県内の学校を中心に「断熱ワークショップ」を手掛けているのだ。断熱をしっかりすることで冷暖房のエネルギー効率が改善され、二酸化炭素(CO2)の排出削減につながる。
「断熱ワークショップは社会的な効果がとても高い取組みです。学校で実施することで生徒や教員の意識も高まりますし、教育委員会や近隣の工務店、事業者も協力してくれるようになりました。最終的には日本中の学校の教室が断熱改修されるよう、最近は国にも呼び掛けています」
さらに、市民と行政、地域の企業を結ぶ学びと対話の場「上田リバース会議」を立ち上げ、まちづくりにも声をあげるようになった。
▼「県政史上最高」のパブリックコメントが行政を動かす
自然エネルギーの普及から気候変動対策、まちづくりにまで活動が広がった藤川さんは、今や、長野県内でも知られた存在だ。
世界的な脱炭素の流れのなかで2020年、長野県が「ゼロカーボン戦略」として「2030年までに48パーセント削減」という目標を発表した。それは藤川さんにとって、謙虚過ぎる数字だった。長野県は東日本大震災の前から積極的に自然エネルギーの導入を進めており、都道府県のどこよりも早く気候非常事態宣言を出すなど、国内でも環境や気候変動対策のトップランナーとして知られる。
それなのに、「2030年までに46%」という国の目標に2%しか上積みされていないのはどういうこと? 長野県ならもっと削減できると感じた藤川さんは、これまで培ったネットワークを通じて県庁にパブリックコメントを送るように呼び掛けた。加えて、県の担当者にアプローチしたり、パブリックコメントを書く会などを開いて市民と意見交換の場を設けた。
こういった動きが、「県政史上最高」という180通のパブリックコメントにつながった。また、スウェーデンの環境活動家、グレタ・トゥーンベリさんが始めた運動「フライデーズ・フォー・フューチャー」に共感する団体、「フライデーズ・フォー・フューチャー・ジャパン」などの若い世代も藤川さんたちの動きに呼応し、長野県知事に100通近い応援メッセージを送信。その結果、2021年6月、長野県は目標を大幅に引き上げ、「2030年までに60パーセント削減」と発表した。
「パブコメって形式的なものだというイメージがあるけど、市民が声を上げるってすごい力なんだと実感しました。行政に疑問を感じた時、クレームを入れたり、なにを言ってもダメだと投げ出すのではなく、対話しながらタッグを組む。行政と一緒にそういうことができるんだと感じた最初の経験でしたね」
長野県を動かしたのは、藤川さんが映画『六ヶ所村ラプソディー』を観て学び、長らく実践してきたコミュニケーションの力だった。
▼理想の上田市とは?
今、藤川さんは上田市と連携して、地域の課題解決に挑む機会が増えている。人口が減り、事業者の売り上げも、固定資産税も減少の一途、公共施設やインフラは老朽化し、まちなかは駐車場だらけでスポンジ化が進むなど、課題は山積み。その逆境のなかで、どうやって魅力的な町にしていくのか。藤川さんが今、目をつけているのは「公共交通」だ。
「車は維持費も高いから、今後の世代はひとり一台持てないでしょう。高齢化で免許返納も進みますよね。だからもう、車じゃなくて、バスや電車でまちなかに出るというデザインにする。そうしてまちなかを歩く人が増えれば店舗の売り上げも増えるし、公共交通が元気になれば、駅の近くの人口密度が高まって、お店や病院が成り立ちやすくなる。公共交通を立て直してみんなが乗るようになれば、まちが変わります」
藤川さんは、上田の駅から北に路面電車を走らせようとデザイン会議を開いたり、上田市と一緒に考えた、上田市内を走る鉄道「別所線」を地域住民の太陽光発電で動かすプロジェクトが環境省脱炭素先行地域に選定されたりしている。これらアイデアは、車の排ガスが減ることによる脱炭素やエネルギーシフトにもつながっているのだ。
路面電車や自動運転EVバスがまちなかを走る未来の上田イメージ
(藤川さんが地域の仲間と企画した「上田まちなかデザイン会議」で発表した)
上田で太陽光発電や断熱を推し進め、今はすべてがリンクしたサステイナブルなまちづくりにまい進する藤川さん。最後に、これからどういう町になってほしいですか? 理想の上田とは? と尋ねると、いかにも彼女らしい答えが返ってきた。
「こういうまちを作りたいって、みんなが選んでつくるまちですね。コミュニケーションしながら、みんなで決めたまちの形になっていくのがいいなあ」
「バトンタッチ SDGsはじめてます」 藤川まゆみさんの回は11月25日18時半~より放送
放送終了後、期間限定で無料配信もしております。
著者プロフィール
川内イオ
稀人ハンター 1979年生まれ。ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。2006年から10年までバルセロナ在住。全国に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に広く伝えることで「誰もが個性きらめく稀人になれる社会」を目指す。この目標を実現するために、2023年3月より、「稀人ハンタースクール」開校。全国に散らばる一期生とともに、稀人の発掘を加速させる。近著に『稀食満面 そこにしかない「食の可能性」を巡る旅』(主婦の友社)。