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旅・くらし
「DoTEフェス」
#308
暦に集う
2024年11月24日(日)よる8:54~9:00
木や森のよさを伝える 崎川哲一(さきかわ・てついち)33歳
未来につなぐエール
2024年11月24日(日)午後6:54~よる7:00
「オランダ船で巡る アジア歴史探訪クルーズ ~長崎・釜山・上海~」
#415
世界の船旅
2024年11月23日(土)午前9:30~9:55
報道・ドキュメンタリー
株式会社セコマ 代表取締役会長 丸谷智保 前編故郷の丘からの風景がくれた 「何とかなる」の思い
#85
トップの源流
2024年11月23日(土)よる6:00~6:30
世界一周クルーズで味わう食の楽しみ
#404
飛鳥物語II
2024年11月23日(土)午前9:55~10:00
BS朝日エピソード0~コンテンツ開発秘話~
番組ホームページで紹介しきれないウラ話や苦労話、コンテンツ開発秘話などをご紹介していきます。
BS朝日無料見逃し配信
放送終了後、期間限定で無料配信中!見逃し配信はTVerで!
地方創生DX「発信と体験」
~芸とおもてなしの文化~ あなたの知らない花街の魅力をご紹介します。
戦国武将、織田信長が家臣である明智光秀に裏切られ、自害してしまった「本能寺の変」―。 今からおよそ440年前の京都で起きた、日本の歴史を大きく変えた大事件ですが、実はその影響で、のっぴきならない状況に陥ったのが、のちの天下人、徳川家康でした。少人数で大坂、堺へ来ていた家康は、明智光秀の軍勢1万3000人の捜索をかい潜りながら、領地の三河へと帰る、命がけの逃避行、いわゆる「伊賀越え」を余儀なくされたのです。 そこで今回は、俳優の渡辺大さんと、直木賞を受賞し今注目の歴史時代小説家、今村翔吾さんが、家康の足跡を辿る旅へ!実は家康は、伊賀越えの中で、生死を分ける「運命の二択」に幾度も直面していました。実際のルートを歩きながら、今村さんが作家ならではの視点で家康の状況や心境を鋭く推理!なぜ家康は運命の二択で正解を選び続けることが出来たのか、そして天下を取った理由をひも解きます。
まずは、家康が歩いたと言われる「甘南備山(かんなびやま)」の周辺へ。早速ここで運命の二択!実は家康は、伊賀越えをせずとも、堺に戻って「海路」で三河に帰る方法もありました。一体なぜ明智軍がうごめく危険な「陸路」を選んだのか?その理由は? そして甘南備山の東を流れる木津川の近くでは、同行した穴山梅雪が殺されてしまうという事件が発生! 実はここでも家康が直面した運命の二択が、その選択の裏に、今村さんは、家康の天下人としての資質を垣間見ます。 家康が休憩をしたと伝わる城の跡地では、伊賀越えに協力した人たちにまつわる、興味深い言い伝えがありました。家康が協力のお礼に贈ったという貴重な「ある品」が埋められているというのです。それは一体? さらに東へと進んだ、宇治田原町では、日本で初めて煎茶を発明した永谷宗円の生家へ。永谷宗円と伊賀越えとの意外な関係とは? そして伊賀越え当時から同じ場所に建つ寺院、遍照院(へんじょういん)は、家康が立ち寄ったと伝わる場所。この寺に代々伝わる逸話とは? 伊賀越えと同じような時期にルートを巡り、家康の状況を体験!その心境に思いを馳せます。ぜひお楽しみに。
【専門家出演者】 ●歴史時代小説家 今村翔吾 【作品】 『塞王の楯』 (集英社) 2022年1月 第166回直木三十五賞受賞 『イクサガミ』(講談社) 最新作 文庫上下巻
家康「伊賀越え」運命の二択 今から約440年前、京都で起きた日本の歴史を変えた大事件・本能寺の変。天下統一目前だった織田信長が、家臣の明智光秀に反旗を翻されて自害。その影響を被った徳川家康は「神君伊賀越え」という命懸けの逃走劇を繰り広げた。 渡辺大が当時の面影が残るルートを歩き、伊賀越えの足跡を巡る!
“本能寺の変”その時家康は? 最初に訪れたのは、伊賀越えのきっかけとなった「本能寺」。本能寺の変が起きた同日午後、上方見物で大坂・堺に滞在していた家康一行が、領地の三河へ帰還する逃走劇を「神君伊賀越え」と呼ぶ。 総距離は200kmで、最も危険な京都を抜けるには約40km移動する必要があった。その間、次々に迫られた運命の二択とは?!
<本能寺> ・住所:〒604-8091京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522 ・電話:075-231-5335 ・公式サイト:https://www.kyoto-honnouji.jp/
生死を賭けた京都脱出の始まり 次に訪れたのは、甘南備山。大坂を抜けた家康一行は西麓を歩いたそう。家康は信長の死を知った時、切腹しようとしたという伝説も残っているのだとか。 海路か陸路の選択を迫られ、陸路を選んだ家康。果たして、その理由とは?
密かに打った天下統一への布石 続いては木津川のほとりへ。家康と共に上方見物に同行していた梅雪は、伊賀越えの最中に家康と別行動になり、命を落としてしまったという。 別行動を取ったのではなく、実は家康が梅雪を始末した説もあるとのこと!真相は不明だが、家康の天下人の資質を垣間見ることができた。
命を救った協力者たちの思惑 旅人や商人たちが利用した渡し船で、家康は木津川の対岸に渡ったと考えられている。3世代に渡り家康を支えた京都の豪商・茶屋四郎次郎が、お金を渡して情報を得るだけでなく、船の手配もして家康を支援したのだとか。 渡し船に乗ったことを周囲に悟らせないため、家康は御偉方や商人に扮装していた可能性もあるとのこと!
当時のまま残る 家康が歩いた道 家康が休憩を取ったと伝わる「山口城址」へ。現在は茶畑となっているが、かつては山口城が建てられていた。山口城で家康がどのように過ごしたのかを教えていただき、家康が通った信楽街道の「口伝えの古道」を案内していただいた。 さらに家康が通った「黒豆坂」へ。鬱蒼とした細く急な山道で、伊賀越えは肉体や精神が疲弊する過酷な旅であることを実感できた。
<山口城址> ・住所:〒610-0255 京都府綴喜郡宇治田原町郷之口田中
<黒豆坂> ・住所:京都府宇治田原町
協力者の意外な正体とは? 信楽街道が通る集落内の「永谷宗円生家」へ。宗円は今の緑色をした煎茶を生み出し、5代前の家弘は伊賀越えで家康を警護したという。 味・香り・色の三拍子揃った「一級煎茶 宗圓」をいただいた。
<永谷宗円生家> ・住所:〒610-0221 京都府綴喜郡宇治田原町大字湯屋谷 小字空廣 ・電話:0774-88-6638 ・公式サイト:https://ujitawara-kyoto.com/sightseeing/scenery/nagatanisouenseika/
京都脱出 最後の難所 続いて家康が通った「松峠入り口」へ。しばらく歩くと、約1kmの険しい登り道が続いていた。道中の分岐路で、東海道か信楽街道のどちらへ進むのかという生死に関わる選択を迫られたのだとか!
<松峠入り口> ・住所:京都府宇治田原町
立ち寄った寺に残る 家康の足跡 家康が京都で最後に立ち寄ったと伝わる「遍照院」には、休息を取るため腰掛けたという石が残っている。家臣が見張りに立ったと伝わる場所で、家康の前半生に思いをはせた。
<遍照院> ・住所:〒610-0211 京都府綴喜郡宇治田原町奥山田岳谷17 ・電話:0774-88-3521 ・公式サイト:https://ujitawara-kyoto.com/sightseeing/shrinestemples/%e9%81%8d%e7%85%a7%e9%99%a2/
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戦国武将、織田信長が家臣である明智光秀に裏切られ、自害してしまった「本能寺の変」―。
今からおよそ440年前の京都で起きた、日本の歴史を大きく変えた大事件ですが、実はその影響で、のっぴきならない状況に陥ったのが、のちの天下人、徳川家康でした。少人数で大坂、堺へ来ていた家康は、明智光秀の軍勢1万3000人の捜索をかい潜りながら、領地の三河へと帰る、命がけの逃避行、いわゆる「伊賀越え」を余儀なくされたのです。
そこで今回は、俳優の渡辺大さんと、直木賞を受賞し今注目の歴史時代小説家、今村翔吾さんが、家康の足跡を辿る旅へ!実は家康は、伊賀越えの中で、生死を分ける「運命の二択」に幾度も直面していました。実際のルートを歩きながら、今村さんが作家ならではの視点で家康の状況や心境を鋭く推理!なぜ家康は運命の二択で正解を選び続けることが出来たのか、そして天下を取った理由をひも解きます。
まずは、家康が歩いたと言われる「甘南備山(かんなびやま)」の周辺へ。早速ここで運命の二択!実は家康は、伊賀越えをせずとも、堺に戻って「海路」で三河に帰る方法もありました。一体なぜ明智軍がうごめく危険な「陸路」を選んだのか?その理由は?
そして甘南備山の東を流れる木津川の近くでは、同行した穴山梅雪が殺されてしまうという事件が発生! 実はここでも家康が直面した運命の二択が、その選択の裏に、今村さんは、家康の天下人としての資質を垣間見ます。
家康が休憩をしたと伝わる城の跡地では、伊賀越えに協力した人たちにまつわる、興味深い言い伝えがありました。家康が協力のお礼に贈ったという貴重な「ある品」が埋められているというのです。それは一体?
さらに東へと進んだ、宇治田原町では、日本で初めて煎茶を発明した永谷宗円の生家へ。永谷宗円と伊賀越えとの意外な関係とは?
そして伊賀越え当時から同じ場所に建つ寺院、遍照院(へんじょういん)は、家康が立ち寄ったと伝わる場所。この寺に代々伝わる逸話とは?
伊賀越えと同じような時期にルートを巡り、家康の状況を体験!その心境に思いを馳せます。ぜひお楽しみに。
【専門家出演者】
●歴史時代小説家
今村翔吾
【作品】
『塞王の楯』 (集英社)
2022年1月 第166回直木三十五賞受賞
『イクサガミ』(講談社)
最新作 文庫上下巻
家康「伊賀越え」運命の二択
今から約440年前、京都で起きた日本の歴史を変えた大事件・本能寺の変。天下統一目前だった織田信長が、家臣の明智光秀に反旗を翻されて自害。その影響を被った徳川家康は「神君伊賀越え」という命懸けの逃走劇を繰り広げた。
渡辺大が当時の面影が残るルートを歩き、伊賀越えの足跡を巡る!
“本能寺の変”その時家康は?
最初に訪れたのは、伊賀越えのきっかけとなった「本能寺」。本能寺の変が起きた同日午後、上方見物で大坂・堺に滞在していた家康一行が、領地の三河へ帰還する逃走劇を「神君伊賀越え」と呼ぶ。
総距離は200kmで、最も危険な京都を抜けるには約40km移動する必要があった。その間、次々に迫られた運命の二択とは?!
<本能寺>
・住所:〒604-8091京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522
・電話:075-231-5335
・公式サイト:https://www.kyoto-honnouji.jp/
生死を賭けた京都脱出の始まり
次に訪れたのは、甘南備山。大坂を抜けた家康一行は西麓を歩いたそう。家康は信長の死を知った時、切腹しようとしたという伝説も残っているのだとか。
海路か陸路の選択を迫られ、陸路を選んだ家康。果たして、その理由とは?
密かに打った天下統一への布石
続いては木津川のほとりへ。家康と共に上方見物に同行していた梅雪は、伊賀越えの最中に家康と別行動になり、命を落としてしまったという。
別行動を取ったのではなく、実は家康が梅雪を始末した説もあるとのこと!真相は不明だが、家康の天下人の資質を垣間見ることができた。
命を救った協力者たちの思惑
旅人や商人たちが利用した渡し船で、家康は木津川の対岸に渡ったと考えられている。3世代に渡り家康を支えた京都の豪商・茶屋四郎次郎が、お金を渡して情報を得るだけでなく、船の手配もして家康を支援したのだとか。
渡し船に乗ったことを周囲に悟らせないため、家康は御偉方や商人に扮装していた可能性もあるとのこと!
当時のまま残る 家康が歩いた道
家康が休憩を取ったと伝わる「山口城址」へ。現在は茶畑となっているが、かつては山口城が建てられていた。山口城で家康がどのように過ごしたのかを教えていただき、家康が通った信楽街道の「口伝えの古道」を案内していただいた。
さらに家康が通った「黒豆坂」へ。鬱蒼とした細く急な山道で、伊賀越えは肉体や精神が疲弊する過酷な旅であることを実感できた。
<山口城址>
・住所:〒610-0255 京都府綴喜郡宇治田原町郷之口田中
<黒豆坂>
・住所:京都府宇治田原町
協力者の意外な正体とは?
信楽街道が通る集落内の「永谷宗円生家」へ。宗円は今の緑色をした煎茶を生み出し、5代前の家弘は伊賀越えで家康を警護したという。
味・香り・色の三拍子揃った「一級煎茶 宗圓」をいただいた。
<永谷宗円生家>
・住所:〒610-0221 京都府綴喜郡宇治田原町大字湯屋谷 小字空廣
・電話:0774-88-6638
・公式サイト:https://ujitawara-kyoto.com/sightseeing/scenery/nagatanisouenseika/
京都脱出 最後の難所
続いて家康が通った「松峠入り口」へ。しばらく歩くと、約1kmの険しい登り道が続いていた。道中の分岐路で、東海道か信楽街道のどちらへ進むのかという生死に関わる選択を迫られたのだとか!
<松峠入り口>
・住所:京都府宇治田原町
立ち寄った寺に残る 家康の足跡
家康が京都で最後に立ち寄ったと伝わる「遍照院」には、休息を取るため腰掛けたという石が残っている。家臣が見張りに立ったと伝わる場所で、家康の前半生に思いをはせた。
<遍照院>
・住所:〒610-0211 京都府綴喜郡宇治田原町奥山田岳谷17
・電話:0774-88-3521
・公式サイト:https://ujitawara-kyoto.com/sightseeing/shrinestemples/%e9%81%8d%e7%85%a7%e9%99%a2/