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#143

200年前の都の歩き方

今回は俳優・渡辺大さんが、江戸時代の観光ガイドブック「名所図会」を見ながら、現代の観光名所が当時どのような場所だったのかを探ります。
足利義政とゆかりの深い「銀閣寺」。200年前から人気の観光地だったそうですが、現在と違う目的で参拝客は訪れたといいます。そのヒントが名所図会に。まずは当時の絵図にも描かれている国宝・観音殿へ。正式名称を東山慈照寺というこの寺が、銀閣寺と呼ばれるようになった理由がこの建物に隠されているといいます。その理由とは? 同じく絵図に残されている東求堂は、義政が晩年を過ごした場所。書斎は四畳半の和室の起源とされています。そして、当時の人がこの寺を訪れていた理由がわかる向月台へ。当時の絵図と見比べると、明らかに高くなっていますが、時代とともに高くなっているそう。実はこの場所、目の前の山から昇る月の反射をより美しく愛でるために作られたという説も。つまり当時の人は、お月見を楽しむために銀閣寺を訪れていた可能性が。

多くの人が行き交う「三条大橋」。豊臣秀吉の命により造られたこの橋も、名所図会に描かれています。そこには今も残る川へ直接降りる道が。実はこれ元々は牛車が川を渡るための道。江戸時代は橋の保全のため牛車が橋を渡ることは禁止されていたというのです。その頃の名残を見ながら、当時の人たちの「橋に対する思い」に迫ります。
京都市内でも、特に人や自動車の往来が激しい「四条大橋」。絵図を見ると橋が今よりも短いことがわかります。その理由とは? また絵図をひも解くことで、現代に続く様々な文化がこの場所で育まれてきたことがわかるのだとか。そのヒントとなるのが芝居と書かれた建物。現在の南座です。江戸時代初期、鴨川の河原には南座を含め7つの芝居小屋が設置されていたのです。
京都で火伏・防火の信仰が深い愛宕神社のある「愛宕山」。絵図にも描かれている鳥居の麓にあるお店では、当時から参詣客に提供されていた名物をいただきます。同じく名所図会に残されている「化野念仏寺」にも足を運びます。葬送地だったこの地が絵図に描かれた理由を教えていただきます。
江戸時代の観光ガイドを片手に、長い歴史を育んできた京都だからこそ楽しめる時代を超えた旅に出かけます。
 
【専門家出演者】
●同志社女子大学 教授
天野 太郎さん