バックナンバー

#118

世界遺産 二条城 究極の理由

今回は世界遺産「二条城」への旅。徳川家康が築き、秀忠と家光が改築したこの城は「城の究極の形」だと言われます。城の専門家・千田嘉博先生の案内で、その理由をひも解きます。
まずは「東大手門」へ。豪華な装飾のみならず防御も備わり、敵が襲ってきた時に迎撃するための「石落とし」を拝見します。
二条城には、軍事力以外で諸大名たちを制圧する仕掛けが随所に見られます。城の門には相応しくない豪華な彫刻が施された「唐門」や見事な「二の丸御殿」の襖絵、貴重な石をふんだんに使った「二の丸庭園」は、徳川家が権威を見せつけることで世を治めたことの象徴的なもの。
そして、今回の1番の見どころ「本丸」へ。この本丸を知ることで、二条城が「究極の城」であることがわかると言います。二条城に伝わる写真を見ると今とは違う驚きの様子が写ります。これは将軍が外に出なくても本丸に行けるよう、城内の建物が全て廊下で繋がっていたことの証し。1626年の行幸の時には、後水尾天皇もその渡り廊下を使い天守まで登ったのです。
さらに本丸の「防衛システム」も注目すべきポイント。内部には「雁木(がんき)」と呼ばれる石段が備わります。敵の襲来の際、兵がここを駆け上がり攻撃できるように作られたものですが、通常は城内に数カ所作られる程度である雁木が、本丸の内側をぐるりと一周備わっているのです。こんな城は他にはないといいます。また堀の外側に設けられた防衛システム「馬出し」。二条城には戦国時代に流行した馬出しには考えられないほど巨大なものへと進化した姿が見受けられます。
かつては本丸と二の丸それぞれに天守があった二条城。その2つの天守は数奇な運命を辿ります。二の丸にあった天守は幕末、鳥羽・伏見の戦いの舞台となった淀城に移築。そして本丸の天守は落雷により焼失。今も残る天守台の石垣にはそのことを物語る痕跡が残っていました。
空前のスケールを誇っていた二条城。これまで番組で紹介しきれなかったエリアにも潜入し、「究極の城」と言われるその魅力に迫ります。
 
【専門家出演者】
城郭考古学者 奈良大学文学部教授
千田嘉博 さん