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#406

海老名香葉子(エッセイスト)

ゲスト×インタビュアー
海老名香葉子(エッセイスト)× 石原正康(編集者)

1933年、東京都墨田区本所の生まれ。実家は江戸から続く釣竿の老舗で、裕福に何不自由なく育つ。兄3人、弟1人がおり、唯一の女の子だった香葉子は大切に育てられた。しかし、そんな幸せな家族に暗雲が忍び寄る。1945年3月10日、東京大空襲。親戚の元へ疎開していた香葉子は無事だったが、兄1人が生き残り、家族6人が命を落としてしまった。
香葉子は親戚の家などを転々とし、父の釣竿を愛用する落語家・三遊亭金馬の家に引き取られる。そこで林家三平の母に見初められ、三平とデートすることに。三平がデートに選んだ場所は、香葉子も驚く場所だった。1952年、18歳で三平と結婚。しかし幸せは束の間。新婚2カ月で三平が身体を壊して入院し、収入が途絶えてしまう。義母は土地を売って入院費を用意したが、翌年には長女も誕生し、生活は困窮。香葉子も内職をして、家計を支えたという。
その後、テレビ出演で三平の人気に火がつき、大ブレイク。伝統にとらわれない型破りな芸風で国民に愛され、1958年、真打ちに昇進。名実ともに一流の噺家に。その頃の三平は交友関係も広く、石原裕次郎や松田優作も自宅を訪ねてきたという。松田優作は三平の家の近所の銭湯にも現れた。
1980年、54歳で三平が亡くなると、4人の子供と30人近い弟子が取り残された。当時小学生だった二代目林家三平は、父がいなくなって寂しがっていたが、そんな息子に「いつまでも泣くんじゃない!今日からお母さんはお父さんになる!」と一門を支える決意を語ったという。
そしてテレビで身の上相談を行い、本を書いてみないかと言われ、必死で自らの半生を涙と笑いで綴った自叙伝「ことしの牡丹はよい牡丹」が40万部のヒット!その後も次々と作品を発表し、いつしかエッセイストと呼ばれるまでになっていた。
香葉子は毎年3月10日、「時忘れじの集い」を開催。東京大空襲で亡くなった方の魂を鎮魂する催しを行っている。心筋梗塞、乳がんと大病を患いながら今、85歳。彼女が見据える先には何があるのか…?