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#371

蛭子能収(漫画家)

ゲスト×インタビュアー
蛭子能収(漫画家)× 石原正康(編集者)
 
1947年、熊本県天草市に生まれ、その後23歳まで長崎県長崎市で育った。周囲の空気が読めなかったのは子供の頃から。そのためか、中学に入ると不良たちから毎日いじめにあっていたそうだ。高校卒業後、一度は地元の看板店に就職するも夢を抱き、1970年に上京。当時は映画監督を目指していたという。しかしある理由から断念、漫画家を目指すことになる。
定職につかず、先の見えない青年時代の蛭子を支えたのが妻・貴美子さん。東京~長崎の文通から始まった恋は、その後、貴美子さんが上京して、妊娠・結婚。後に念願の漫画家となった蛭子だが、原稿料は安く、生活は苦しかった。そんな中でも大好きなギャンブルを止めることはなく、ある時、ひらめいた必勝法を実行するため借金を試みることに。結果次第では、貴美子さんにまで被害が及ぶ可能性があったという…。
処女作「パチンコ」が伝説の漫画誌「ガロ」に掲載され、デビューしたのは1973年。メジャーな漫画とは全く違う、ヘタウマな画と不条理で暴力的でシュールな作風が、一部の若者たちから熱狂的な支持を集める。さらに、カルト的な人気はあったものの、世間的に全く無名だった蛭子に転機が訪れたのは80年代。劇団「東京乾電池」のポスターを描いたことがきっかけで舞台に出演。テレビからも声がかかり、「笑っていいとも!」「スーパーJOCKY」といった人気番組にレギュラー出演するように。独特のイントネーションと天然キャラでブレイクし、「蛭子さん」の愛称で一躍人気者になる。それまでの貧乏生活から一転、年収1億円を超える人気タレントになったが、好事魔多し。麻雀賭博で逮捕され、謹慎生活に…。ところが、蛭子は周囲が呆れる仰天行動に出る。その行動とは?
その後、キャラクターが生きたのが、2007年から始まった旅番組「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」だ。旅の相棒であるしっかり者の太川陽介とは対照的な、正直すぎる発言と自由奔放な振る舞いがウケ、10年続く人気シリーズに。しかし、正直すぎる言動でヒンシュクを買うこともしばしば。撮影協力してくれた店主を激怒させてしまったこともあるそうだ。それでも一向に気にする様子も見せないのは、蛭子なりの考えがあるからとか。その言動と独自の考えは注目を集め、2014年に出した著書「ひとりぼっちを笑うな」はベストセラーとなった。果たして、蛭子流の人生哲学とは?
一昨年には初の主演映画が作られ、その後も出版が相次ぐなど、「蛭子ブーム」といっても過言ではないほど、華々しい活躍を見せている蛭子能収。生き残りが厳しい芸能界で、気が付けば30年以上のキャリア。蛭子が多くの人に愛され、支持される理由とは? そして、近年の再ブレイクを自身はどう思っているのか? ボートレースをこよなく愛する蛭子のため、東京・江戸川区にあるボートレース江戸川の舟券売り場にて行われたインタビュー。自由気ままにものを言い、世間に忖度をしない生き方に爆笑、仰天、そして呆れる1時間!