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#87

三橋美智也(&春日八郎・村田英雄)

ミリオンセラーは民謡を含めると20曲以上に及び、販売枚数は歌謡界史上最多の1億6千枚といわれている。春日八郎、村田英雄と共に“哀愁の御三家”として人気を誇った三橋美智也。三波春夫を加えた4人の歌は強く人々の心を掴んだ。しかし、栄光の裏には流浪の時代、葛藤や試練の日々があった。
三橋美智也を中心に、昭和を駆け抜けた4人の歌手の生きざまを見つめていく。
 
・ 民謡のために生まれてきた少年~流浪の青年時代
父を亡くし、民謡歌手だった母から幼い頃より歌を教えこまれた。9才の時には「全国民謡コンクール」で優勝。「民謡のために生まれてきた少年」と騒がれた。戦争中は三味線を抱えて巡業。再婚して4人の子供を生んだ母と一家のための出稼ぎは終戦後も続き、全国行く先々から家に送金した。この頃の流浪のわびしさ、孤独感から、終生「地に足のついた生活」に憧れた。
 
・勤労学生からスターの階段を駆け上る
上京後、21才で高校入学。ボイラーマン、民謡教師、学生と3つのわらじを履く中、チャンスを掴んでデビュー。2年で200万枚のヒットを飛ばし、一躍スターの座へ。デビュー8年で売上1000万枚。紅白歌合戦では出場2度目でトリを務め、紅組の美空ひばりと肩を並べた。
(三橋美智也ヒット曲:「リンゴ村から」「哀愁列車」「赤い夕陽の故郷」「夕焼けとんび」「古城」など)
 
・“哀愁の御三家”が築いたもの
春日八郎、村田英雄と共に“哀愁の御三家”と呼ばれ、一時代を築いた。平成元年頃には「三人の会」を結成。晩年まで続いた「交流」と演歌に託した「思い」とは。
(春日八郎「別れの一本杉」、三橋美智也「哀愁列車」、村田英雄「王将」など)
 
・試練との闘い、夢に手を伸ばし続け
昭和50年以降、妻の病、糖尿病発症、事業の失敗と試練が続く。病が悪化し、足の小指を壊疽(えそ)で切断。それでも新曲発売に意欲を燃やした。平成8年、突然倒れて亡くなったのは、2年ぶりの新曲ができあがったばかりの時だった。
 
販売枚数歌謡界史上トップという三橋美智也の功績はいまだに破られず、次ぐ2位がB’z。ヒット曲の多さ以上に胸を打つのは、相次ぐ試練にくじけず、人生に挑戦し続けた姿勢だった。望郷歌謡に命を燃やした歌手・三橋美智也。その思いが懐かしい歌と共によみがえる。