バックナンバー

#31

天才落語家・立川談志 ~異端と呼ばれた男の素顔~

昭和11年1月2日、東京の小石川生まれ。本名松岡克由(まつおかかつよし)。
小学校5年生の時、伯父に連れられて行った「浅草松竹演芸場」で、初めて生の落語を見てその話芸に心奪われ、「ずっと寄席に居たい、寄席にずっと居るためには落語家になるしかない」という思いが心に芽生えます。
その夢をかなえ、16歳で柳家小さんに弟子入り。柳家小よしという名前を与えられ修行に励みました。
 昭和29年には、二つ目に昇進。名前も柳家小ゑんとなります。
談志は落語だけにとらわれず、アメリカンジョークを習得してキャバレーや
ストリップ劇場の幕間でスタンダップコメディーとして披露するなど多彩な才能を開花させラジオやテレビにも引っ張りだこになりました。
しかし、そんな談志を襲った屈辱…。
入門が早かった談志より先に、弟分だった古今亭志ん朝が真打に昇進してしまったのです。談志は古今亭志ん朝に「辞退しろよ!」と迫り、この悔しさと落語協会への不満をのちのちまでひきずります。

 24歳のとき、フィアンセがいた女性に猛アピールし略奪結婚。
この女性が生涯の伴侶となる、則子(のりこ)さんでした。
 その後、タレント議員ブームにのり、参議院議員に当選するも、酒に酔って会見を行ったため非難が殺到して辞任。その破天荒ぶりが話題となります。

 さらに、真打昇進試験への不満をきっかけとして落語協会を脱退。
立川談志を頂点とする家元制の立川流を創設すると、立川志の輔、志らく、談春らを育て上げます。
晩年は病との闘い。1997年 食道ガン、2008年には喉頭がんを患います。
ガンを完治させるためには、落語家の命である声帯を摘出しなければならず、談志は完治を諦めて、落語家としての最期の時間を過ごします。

2011年3月、容態が急変し、気道確保のために喉を手術。完全に声を失いました。「家に帰りたい」「睡眠薬をよこせ」「死にたい」とメモを記す談志。
次第に、自らの死期を悟り最期は穏やかな死を迎えたといいます。

 番組では立川流の最高傑作・立川志の輔、爆笑問題・太田光、石原慎太郎、毒蝮三太夫ら談志と縁の深い人々へ徹底インタビューを敢行。異端と呼ばれた天才の人間像に迫ります。
さらに、立川流で現在最も弟子の多い立川志らくのけいこ風景などに密着。
談志の遺した立川流の魅力を描きます。